高崎のおもてなし 5

〝温故知新〟高崎電気館のおもてなし

志尾 睦子

 中央アーケード通りから柳川町の繁華街へと歩みをすすめると、高崎電気館の建物が現れます。小さな店舗が建ち並ぶ飲屋街にとけ込んでいて、立ち止まって眺めてみないとその建物の大きさに気づかないほど。2000年に映画館営業を停止していますが、1913年の創業から数えると昨年で100周年。そんな高崎電気館には、静かに森の中に鎮座する年輪を刻んだ大木のような存在感が感じられます。
 日本で初めて映画専門館が出来たのは1903年、浅草にある吉沢商店が始めた「電気館」と言われています。高崎初の映画館も「電気館」。「電気」を冠した館名が、その時代を象徴しています。高崎電気館の創業者は広瀬保治さん。戦後、二代目を広瀬家の三男・正和さんが継ぎ、1966年に今の形に建て替えられました。映画全盛期と言われた昭和30年代、高崎の街中には8つの映画館がありました。時代は流れ、平成に入ると映画館の形はシネマコンプレックスに取って代わられ、既存館は少しずつ姿を消して行きました。高崎電気館は、正和さんが病に倒れられた2000年に営業を停止、亡くなられた2004年に実質上の閉館となりました。時を同じくして市内にあった既存館も全て閉館してしまいました。それぞれ取り壊されて行く中で、高崎電気館は今も変わらずそこに建ち続けています。
 広瀬公子さんはご主人亡き後、ずっとこの映画館を守り続けて来ました。先代やご主人が大切に経営してきた映画館を取り壊す気にはなれず、かといって違う物として残る事も望まなかったとおっしゃる公子さん。月に一度は風を入れ、お掃除をし、要望があれば映画やドラマの撮影に協力をしてきました。時には、劇場内や映写室の仕様を変えて撮影したいという案件が来たそうですが、その場合はお断りしたそうです。その理由を、「ここは映画館だから」とおっしゃいます。その言葉に、たとえ閉館していても、その価値と誇りを保つ事が後世に伝えるべき財産なのだと感じました。創業者から受継いだ電気館の歴史は今や高崎、ひいては日本の歴史の一端を担います。それを確かな物として残し伝えて行く事こそが、この地に住む人、この地に訪れる人に対してのおもてなしなのだとも思いました。
 この度、公子さんは高崎電気館を高崎市に寄付する道を選びました。映画館として再稼働するだけでなく、新たに高崎市の地域活性化センターとしての役割を担います。「故きを温ね新しきを知る日常」が、高崎電気館からまた始まるのです。

●高崎電気館
所在地:群馬県高崎市柳川町31

◀ 広瀬公子さん

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。