高崎のおもてなし 12

高崎白衣観音の出張おもてなし

志尾 睦子

 今年の1月に東京ドームで開催された「ふるさと祭り東京」では開運たかさき食堂が賑やかに開店し、大賑わいの10日間を終えました。高崎が誇るふるさとの味に加えて好評だったのが鶴亀のお顔が凛々しいだるまの配布と、ブースの一角にそびえ立つ白衣観音像でした。高崎のシンボル白衣観音を実物の6分の1サイズで再現したこのモニュメント、8m近い高さのため、ブースに一歩踏み入れると目線の高さではその存在に気がつきません。見上げて「わあっ!」と声が上がり、しげしげとそのお顔を眺めて行く方も少なくありませんでした。次から次へと人が行き交い、物事が流れていく大イベントにおいて、少し足を止め、観音様のお足元で願いを込めて絵馬を書くひと時は、少しばかりの安らぎの時間になったことでしょう。
 観音山丘陵に建立された、高さ41.8メートルの白衣観音像。遠くからもそのお姿は目視できるため、そのお姿は高崎市民には当たり前の光景です。ふっくらした頬のおだやかで美しいお顔だち、しなやかな体の線、と巨大ながら柔らかな印象を与える観音像は、慈愛に満ちた存在感を放ち、「観音さま」として市民に親しまれています。
 高崎市在住の小説家吉永南央さんの著作『紅雲町珈琲屋こよみ』(文藝春秋)には、主人公のお草さんが観音様を拝みながら毎日を過ごす描写が出てきます。お草さんにとって、人生を紡いできたこの土地で、すべてをただ静かに見つめる観音様の存在は心の拠り所。実際にそうした感覚を持つ市民は少なくないことでしょう。
 さて、そんな市民の心を見守る観音様の建立は、今日の高崎の産業経済の基盤を創りあげた実業家の井上保三郎氏(井上工業初代社長)によるもの。一九三六年に建てられましたが、高崎十五連隊の戦没者の霊を慰め、世の中に観世音菩薩の慈悲の光明を降り注ぎたいとの思いに加え、一九四〇年に開催される予定だった幻の東京オリンピックを見据え、高崎の観光を興すという目的もありました。世界各国から高崎に人を集めるという意気込みは当時の地方都市のあり方としては大変画期的であったことでしょう。
 高崎白衣観音は高崎のシンボルであると同時に、慈しみ深い立ち姿で客人をもてなしているのです。時を経て、そうした思いは観音様を出張させる軽やかなセンスに転換されました。これは我市民ながら素敵な事だと思うわけです。
 今回の観音様の東京出張は3度目。おもてなしはお迎えする心から始まるのだと、観音様が教えてくださっているようです。

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。