高崎のたたずまい 5

吉田家(旧釜淺肥料店)

商家の屋敷構えを今に伝えて―

 高砂町の五本辻の北東へ進む道は、前橋の実政の渡しへ至る「実政街道」。当家は辻から五百メートル程南に建つ。旧店舗から主屋につながり、庭にはレンガ蔵、東通りの旧表門からなる。回り廊下のガラス戸には、四季折々、枯山水の庭園が映し出される。「先祖が大切にしてきた日本家屋に、無言の重みを感じます。できる限り維持したいですね」。そう話す吉田政男さん(65歳)は8年前、肥料商を営んできた老舗・旧「釜淺肥料店」の屋敷(昭和7年築)を引き継いだ。ちず子夫人は「天井が高く夏涼しい。ここへ来ると落ち着くと来客からも言われます」と話す。夏は障子を取り外し、簀戸に取り替えるのが恒例という。
 「義母の自慢は、戦前、高崎の練兵場で閲兵された三笠宮様を我が家へお泊めしたこと。宮様のために、新しく裏玄関を作ったそうです。また毒味をした後の冷めたお食事ではなく、手作りの温かい料理をお出ししたところ大変喜ばれたそうです」。当時、新築だった吉田家は高崎でも有数のお屋敷で、すでに水洗トイレも採用していた。
 主屋は、三菱丸の内ビルディングを手がけた建築家・保岡勝也(1877~1942)による設計であることが、一枚の設計図の発見によって判明した。保岡は、東京帝国大学を卒業後、三菱合資会社に入社。丸の内オフィス街の形成に貢献。その後、住宅作家の開拓者として活躍し、多くの住宅や庭園を手がけたが、プライバシー保護のためその記録を残さなかった。保岡による住宅の特定が難しい中、当家は現存が確定される数少ない住宅として貴重だ。
 高校時代に読んだ谷崎潤一郎の〝陰翳礼讃”という著作が心に残っているという政男さんは、「和風建築独特の光影の妙を実感している」と言う。谷崎が「…太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない―」と著わすように、吉田家主屋の障子から柔らかい光が、その周囲に陰を生み出していた。

●吉田家(左)とレンガ蔵(右端)
高崎市高砂町16