高崎のたたずまい 6

すき焼の信田 ㈲信田本店

昭和の街並みにたたずむ料理店

 信田は明治20年代、佐渡から出稼ぎに来た初代が肉屋を始めたのが始まり。当初は西洋料理や仕出し料理も提供していたという。
 信田のすき焼は2㎏の分厚い砲金製の鍋を炭火で熱し、県産牛の霜降り肉と白たき、野菜などを秘伝の割り下で煮込み、自慢の麦ごはんは昭和30年代半ばまで薪で炊き上げていた。
 「34歳の時、埼玉から嫁いできてね、店のことはみんなお姑さんに教えてもらったけど、厳しい人でね、たれの作り方だけはすぐには教えてくれなかったね」と話す三代目信田ムツ子さんは御年92歳。高崎神社から東に位置する嘉多町の、今も昭和の面影を残す通りで、4年前まで現役で店を営業していた。
 300坪近い木造の建物は「今年の大雪でもびくともしませんでした」と長男の定克さん(59歳)が言うように頑丈にできている。幼少の頃、玄関から中庭の回り廊下、太鼓橋、2階への階段と走り回った。1階は4畳半2部屋と6畳2部屋、12畳の部屋が、2階は30畳の大部屋が3つに仕切れる作りだ。「忙しい時はお客さんが炭火を仰いで運んでくれたり、“姉さん”と呼ばれる芸者さん達が切り盛りしたりして賑やかでした」と、定克さんは懐かしさに目を細める。
 信田の鍋は、市内の小島鐵工所が製作した特注品。熱伝導率が高く殺菌作用がある上、耐久性に優れている。昭和16年(1941)、連合軍との戦が始まり全国的に金属の回収運動が進む中でも、信田の鍋は供出を免れた。と言うのも、高崎の歩兵十五連隊の将校たちの「おいしいすき焼を食べたい」という一心からだったという。「当時は、将校さんしか来られないような店だった」とムツ子さん。「有名人も来たよ。相撲の高見山とかNHKアナウンサーの宮田輝さんとか。色紙が無くて便箋にサインをもらったね。鍋と炭火を見て驚いてね〜。宮田さんが“宣伝してやる”って喜んでた」。
 今は無き信田の看板と肉を保存したガラスケースの前に従業員らの姿がモノクロ写真に残っている。全盛期の信田の面影だが、つい数年前まで高崎市民にとって「すき焼と言えば信田」だった。「信田のすき焼をもう一度食べたい」という声が絶えないが―。「姑さんの言いつけでたれのレシピは門外不出なんだよ」といたずらっぽくムツ子さんが笑った。

●有限会社 信田本店
高崎市柳川町76