高崎のたたずまい 9

旧真木外科病院

檜物町で地域医療を支えた66年
昭和を偲ぶ街の病院の面影

 真木外科病院は昭和16年に真木武次氏が檜物町に開設。以来、高崎市を中心に平成19年までの66年間、地域医療を支えてきた。昭和45年に筑縄町に新しい真木病院が完成したのを機に、武次氏の娘婿である茂木篠二氏が真木外科病院を引き継いだ。同院は、高崎で最初に胃の切除手術を行った病院でもある。
 「戦後、父はリュックに食糧を詰めて、東大病院の木本外科によく通い、木本教授のもとで最新医療と手術手技を学んでいました。 と武次氏の三男・真木俊次さんは語る。
 「全身麻酔が発達していない当時、腰椎麻酔は短時間で切れてしまう。よりスピードが求められる手術の技量は、今に勝るのではないか」と振り返る。「父によく言われたのは“自分の力を過信するな。患者の身体から教われ”ということでした。脈拍や聴診、打診で全身のサインを見逃すなと。大豆を座布団の下に入れて、どこにあるか当てろ、指先の感覚を鍛え、触診にあたれと言われました。検査機器やデータに頼らない本来の医療でしょうね」 打診によって、結核の空洞箇所を見抜き、レントゲンとピタリと重なる等、その腕前の高さを伝えるエピソードが数多く残る。
 「看護師も下働きの人も家族のようでした。蚊に刺されると爺やが煙管に煙草を詰めて、温めた煙管を痒い所につけて直してくれたり、女中さんにおんぶしてもらったり。背中でお漏らしをして、尻をつねられたりね。檜物町のここで育ててもらいました」と思い出話にも花が咲く。当時の病院には、使用人や雇用人という垣根を越えた、人間らしい温かい繋がりがあったという。
 真木外科病院の建物は、井上工業が建築。井上工業の井上房一郎社長が武次氏と同級生だった。木造二階建て、180坪ほどの建物には、大工手製の戸棚や三角天井など随所に職人の手練が光る。2階の病室は当初、畳の間だった。多くの患者を受け入れた病室には、鉄製の丈夫なベッドが今もそのままに残る。一時は、広々とした建物を生かしまちづくりやシェアハウスとしての再利用の話も持ち上がったが、雨漏りも否めず、来春の取り壊しが決まり、すでにリサイクル業者が主要な家具や道具を運び出してしまった。
 大通りから一歩入った真木外科病院のある路地裏は一時の人通りも減り、少々寂しくなった。昭和の良き時代の病院らしい面影を残す建物は、一時代の役割を果たし、今、最期の時を迎えようとしている。

●旧真木外科病院
檜物町139