高崎のたたずまい 10

上信電鉄・山名駅

八幡様と共に紡いできた歩み

 高崎駅の0番線を走り出した電車は、十数分で山名駅に到着する。山名駅は安産子育を願う赤い幟が立ち並ぶ山名八幡宮の境内にとけこむかのように佇んでいる。初詣客を迎える前の静けさが広がる線路沿いには、冬の厳しさの中でエネルギーを蓄える桜がまだ姿を隠している。
 山名駅が朝夕の混雑時のみ駅員が立つ半無人駅となったのは平成14年のこと、乗客は切符代わりに車内の整理券を利用する。「まさか山名駅に駅員さんがいなくなるなんて―」。そう話すのは、駅前で長年店を構える中沢洋子さん。中沢さんの両親は200台もの自転車を預かる駐輪場を営み、乗客が下りるや持ち主の顔を見て自転車を用意したという。「高崎商科大学前駅も出来て、山名駅を使う学生さんも減ってしまった」と洋子さんは当時を懐かしむ。一方、富岡製糸場の世界遺産登録後、週末ともなると午前中の車両は観光客で満席になる。「また、以前のような上信になったらいいですね」。
 上信電鉄株式会社の前身、上野鉄道会社が路線を開業したのは、明治30年のこと。当時、群馬県の養蚕業が大きく発展、生糸出荷量の増加に伴い、東京横浜へ結ぶ輸送路の近代化が求められた。3両の機関車で開業した上野鉄道は、大正10年、8両の蒸気機関車を所有。同13年には電化工事が竣工し、利用客数は益々増加、活況を呈した。10月の八幡宮の祭礼には山名駅の乗降客は1万人余を数えた。(『上信電鉄百年史』より)。
 山名八幡宮・神主の高井俊一郎さんは「境内を二分するように通っている上信。鉄道を走らせることを何より優先させた時代だったのでしょう」と話す。宮司であり書家であった祖父・高井金二氏は、毎日のように山名駅から高崎へ向かい上信本社に顔を出し、その足で柳川町に行くのを日課とした。「境内を走る上信はまさに足代わり。高校生だった私も時々祖父にお供しました」と笑う。八幡様と山名駅は、切っても切れない歩みがある。
 今、富岡製糸場や上野三碑が改めて見直され、西上州が再び脚光を浴びている。「上信の各駅沿線に仕掛けが出来たらいいですね。八幡宮では、親子で楽しめるカフェやイベントを開催しています。天然酵母のパンの販売や子育て世代のためのコンセプトマンションなど、子育てをテーマにしたコミュニティが出来たら」と高井さんの夢も走る。
 山名駅を発ち丘陵沿いに高崎方面へ向かうと、前方に榛名山、右手に赤城山が姿を見せ、左には観音様と浅間山に気づく。故郷の美しさと心癒すひと時を運んでくれる上信電鉄の車窓だった。

●山名駅
山名町1515-3