高崎のたたずまい 11

髙﨑山 龍廣寺・山門

〜高崎の発祥を伝える山門ここにあり〜

 高崎駅から観音通りに向かい聖石橋の手前に、堂々たる風情でたたずむ髙﨑山・龍廣寺、山門。“嘉永7年(1854)4月上棟”と、その屋根裏に棟札がある。本堂は大正5年(1916)落成、来年100年目、山門は更に古く161年前、ペリー来航1年後のものである。“髙﨑山”とあるそれは、“高崎”の地名がここに始まったことを今に伝えている。
 慶長3年(1598)、井伊直政は箕輪城下のまちをそのまま、交通の要衝・和田宿(現高崎)に移した。直政は烏川崖上に立つ松を見て、新天地に“松ヶ崎”という地名を考案。しかし、龍廣寺和尚・白庵から「松は枯れる。成功高大の意味を込め“髙﨑”はいかがか」と進言を受け、多いに感銘を受けたと伝わる。
 山門をくぐると、紅梅がちらちらとほころび、ほのかに蝋梅の香りが漂い、境内は整然とした落ち着きがある。「誰もが背筋が伸びるような“無言の説法”を伝えよ」とは、前住職の教えだ。現在、屋根までシートで覆われた本堂は耐震補強の工事中であり、今秋、生まれ変わる。大震災で柱が束石から大幅にずれるなど、大規模な修繕の時期を迎えた。29代目・現住職の喜美候部正令さんは、「仏像は仏具屋に補修をお願いしている。江戸末期の物もあり、古い記録も見つかるかもしれない」と期待を寄せる。
 本堂の西には、昭和7年鋳造の鐘楼がある。第二次大戦時に一度は供出されつつも、寺に戻された鐘である。「朝と夕刻に時を告げる鐘の音に何度も励まされた」とは、近隣の病院の入院患者からの葉書である。「龍廣寺の鐘が鳴ったら帰ってこいと子供は言われたもので、境内で野球をしたり、かくれんぼしたり。皆で五右衛門風呂に入ったり。寺男もいて、昔の寺は賑やかだった―」。
 ロシア正教の八端十字架が刻まれた墓碑は、前住職が偶然見つけたという。日露戦争時、抑留され、ここで亡くなったロシア兵3人のものだ。第二次大戦中、破壊されるのを免れるため当時の住職が土に埋めたのではないか。
 また、幕末に生まれ昭和初期まで活躍した俳人・村上鬼城の墓碑には、“青萍院常閑鬼城居士”と戒名がある。「常閑」とは「心がゆったりとして悟りの境地が近い様」を表し、4代前の住職が命名した。
 庫裡の玄関に掲げられた“丸に橘”の紋は井伊家のもの。高崎の歴史を見守ってきた龍廣寺の鐘の音は、今も変わらぬ時を刻み続けている。

●髙﨑山 龍廣寺
高崎市若松町49