銀幕から生まれた昭和の映画女優11

選ばれし時代のミューズ -小山 明子-

志尾 睦子

 小山明子さんといえば、大島渚監督が枕詞のように出てくる。その逆も然りだ。監督と女優の夫婦は珍しくないが、このお二人の場合は、夫婦ということ以上に、互いの類稀なる才能が、一体感を生み出しているのではないだろうか。
 大島渚監督が倒れられてすぐに、小山さんは女優業を休み献身的に介護に当たられた。監督が亡くなられるまでの17年という介護の月日がおしどり夫婦の印象を強めているかもしれないが、そこに至るまでの映画制作ですでに二人の強力な絆は証明されている。大島渚監督作品に小山明子は欠かせない存在であったし、小山明子の深い内面が役柄に落とし込まれるのはいつも大島渚作品であったような気がする。
 元々は、デザイナーを目指し服飾学校に通っていたという小山さん。学校でファッションショーが開かれた際、その学校に通う子どもの晴れ姿を撮りに来ていたカメラマンが、たまたまモデルをしていた小山さんを撮影していたという。そこから雑誌『家庭よみうり』の表紙モデルに起用され、それを見た松竹大船撮影所の所長が、スカウトしたらしい。その所長とは、女学生だった岸惠子さんを見出し大スターに育てた人物である。目利きに見出された新人女優は『ママ横をむいてて』(1955年/堀内真直監督)で映画デビューし、松竹の看板女優になってゆく。
 生涯の伴侶となった大島渚監督に出会ったのは、デビューの翌年で、5年の歳月を経て結婚されている。看板女優と助監督との恋、それこそご法度だったろうが、大島監督は1959年に監督デビューを果たすと松竹ヌーヴェルバーグの旗手として日本映画界に一石を投じる活躍を見せていく。松竹を辞めた大島監督は創造社を設立し、作家性を追求した映画制作を目指す。非商業主義的で芸術的思考の強い映画を配給・製作するアートシアターギルド(ATG)の重要な監督となって行った。また小山明子さんもフリーとなり、その活動に一女優として入ってゆく。
 印象深いのはやはり『少年』(1959年/大島渚監督)の小山明子である。日本縦断しながら当たり屋を繰り返した一家の話をモデルにした物語で、母親役を演じている。非情な役柄ゆえ魅力的とは言い難いが、美しさとは裏腹な女のふてぶてしさに肝の座った人物像が見て取れ、引き込まれた。超低予算映画で長期にわたる撮影のため、「他に頼める人がいないから、自分がやるしかなかった」と後に語られているが、彼女をおいて他に誰がこの役を表現できただろうかと思ってしまう。
 華やぎの中にある一本貫いた芯、それは唯一無二のパートナーを得たことでより強固に太くなったのだろう。

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。

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