146.橋の風景から32

―八千代橋―

吉永哲郎

 昭和の初め頃から、市街地と烏川右岸との交流が重要視されました。その背景には15連隊と乗附練兵場との橋梁の必要性を軍が要請し、また洪水によって流されることの多い土橋(八千代橋)の永久橋化をと関係住民の強い要望がありました。現在は碓氷川に架かる橋を「八千代橋」と呼称していますが、以前は旧中山道から分かれ、赤坂・歌川町から烏川を渡り、乗附方面への道がありました。その烏川に架かる橋を「千代橋」といっていました。二橋とも土橋で度々増水によって流失したために、先の軍と住民の要請により、昭和16年この二橋を一本化し「八千代橋」として建設工事が始まりました。和田橋が架かるまで乗附や藤木まわりで富岡方面への重要な道筋でした。この烏川と碓氷川にまたがる「八千代橋」を渡ったことのある人は、現在の風景から消えてしまった数々のことを思い出されましょう。昭和20年前後、東京空襲などで焼け出された人たち、住むところが定まらない大陸からの引揚者たちが、この長い橋の下に仮小屋をつくり、多くの人が住んでいました。若い人には想像もつかない風景です。現政権指導者たちが戦争を知らない人たちであることに、不安を感じます。高崎市は未来に生きる子どもたちへ、八千代橋付近の河川敷を健康志向の公園にと計画しています。私の八千代橋は、戦争阻止を考え、平和を祈念する、祈りの聖地です。

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