橋の風景から27

―太鼓橋―

吉永哲郎

 太鼓橋の名は、聖域と俗世との境に架けた橋として、各地の寺社の境内によく見かけます。 さて、中山道倉賀野宿は、倉賀野河岸と相まって、明治17年の高崎線が開通するまでは、人の往来が繁く隆盛な宿でした。その隆盛振りは、幕末には河岸の保有船は百艘を越え、河岸問屋は10数軒あったと記録に残っていることからも、想像されます。また、宿は450軒のうち飯盛女のいる女郎屋兼旅籠屋が64軒あったといわれ、その華やかさも思われます。
 江戸から陸路中山道で倉賀野宿まで25里の2泊3日、水路は江戸から50里、上り船は17~18日、下り船は3~4日かかったといわれています。倉賀野中町の信号から下町の信号の間は坂道です。一番低い地点が町境で、道下に掘割が横切っています。堀は道になっていますが、もとは倉賀野城の土居堀でした。江戸時代中山道筋にあたり、この堀に短い板橋が架かっていましたが、この辺りは地盤が低いため、大雨があると橋は流され往来を度々妨げました。そこで旅籠屋の旦那衆が金を出し合い、切石のアーチ型の橋を架け、太鼓橋と名付けました。今はありませんが、その名残は、中山道下の土居堀の道に降り立つとわかります。ただ、この太鼓橋の費用は、女郎衆たちが拠出したものといわれ、哀しい物語を秘めた橋だったことを、偲ばずにはいられません。

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