高崎名僧列伝

名筆家として知られた烏川即明

高崎名僧列伝:名筆家として知られた烏川即明

 下佐野町の大用山耕運寺は天正元年(一五七三)、木雲宋流和尚によって開山された。木雲和尚は、はじめ武州(埼玉県)児玉郡の骨波田にある長泉寺の六代木巌和尚のあとを継いで七代住職となったが、関東管領上杉氏への披露が遅れたために隠居し、下佐野へ来て庵を建てた。このことを聞き及んだ倉賀野城主の金井淡路守が仏門に帰依し、天正元年癸(みずのと)酉歳に大用山光雲寺を創建した。淡路守はこの後、城の乾の方向に木雲が開山となったもう一つの寺を建立、骨波田の長泉に対して永泉寺とし、山号は同じ大用山とした。


 宝暦五年乙(きのと)亥歳(一七五五)、武州秩父郡石上神龍寺から十四代天麟即明和尚が入院した。天明六年丙(ひのえ)午歳(一七八二)七十七歳で遷化するまで二十二年在住した。天麟即明和尚は書道の達人で、各地の神社仏閣などに筆跡を残したが、烏川即明(うせんそくみょう)と号した。


 倉賀野町の安楽寺の山門を入った正面に、大きな青石塔婆形をした二メートル程の庚申供養塔は烏川即明の書である。同じ倉賀野町の倉賀野山養報寺の山門際に「光明真言」本堂入口の額「倉賀野山」の文字は楷書で、庭の西南隅の庚申塔の文字は隷書で、いずれも即明の書である。そして、さらに倉賀野町内の九品寺内陣の西脇に、桧の大板が掲げられているが、その右には「天下和順日月清明風雨以蒔災厲不起」、左には「国豊民安兵才無用崇徳興仁務修禮譲」と書かれている。


 そして烏川即明の在任した光雲寺入り口の六地蔵近くに東都(江戸)の学者として知られた東江源麟の書で、寛政年間にその業績をたたえた碑があるが、同じ東江源麟の書では、市内で元紺屋町の善念寺経境内に第十一世唱誉察栄上人(安永三年没)の撰文が知られている。烏川即明の書で、市外では、上野十二社の一つ、富岡市神成の宇芸神社の鳥居の額に「宇藝神社」の文字が見られ、遠い社にもその足跡が及んでいることがわかる。

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