明治初期に高崎に着目したふたりの外国人
リチャード・ヴィカルス・ボイル/ジョルジュ・イレェル・ブスケ
リチャード・ヴィカルス・ボイル
Richard Vicars Boyle(1822~1908)
明治初期に高崎に着目したふたりの外国人
鉄道の拠点高崎を建議したアイルランド人
かつて太平洋戦争中に奈良・京都を爆撃から救うために大統領に働きかけ、日本の文化財保護に尽くしたアメリカ人の東洋美術研究家ウォーナー博士がいる。後の調査でこのウォーナー恩人説は情報操作の一環であることが明るみに出たが、奈良斑鳩の法隆寺薬師堂の西の小高い茂みの中に、博士の供養塔がある。このウォーナー博士と同じように、それも鉄道交通の拠点としての高崎の発展に尽力した一人の外国人を忘れてはならない。明治の初め「中山道鉄道」を建議したボイルである。
リチャード・ヴィカルス・ボイルはアイルランドのダブリンで生まれた。世界各国の鉄道事業に従事し、明治5五年(1872年)に来日し神戸に住み、日本の鉄道建設工事全般にかかわり統括した人で、特に中山道を日本の幹線鉄道として政府に建議した。明治7年(1874年)五月に京都大阪間に鉄道を開業させたボイルは、同じ月に建築士ゴールウェーとキンドルらを伴い中山道線路選定のために、神戸から京都を経て中山道に入り高崎に来る。
同行していたこの二人の建築士に、高崎から三国峠の踏査をさせている。約二か月半の踏査をして東京に着く。翌年は横浜から高崎を経て中山道を再調査して神戸に帰着する。この二回の調査を踏まえて「鉄道幹線は中山道が最適」とまとめた上告書を政府に提出している。それによると、
高崎ハ東京ヲ隔ツルコト凡ソ六十六哩ニシテ、前橋地方ノ産絹杯、東京へ輸出スルノ途中、多クハ此ノ地ヲ経過シ百方ヨリ通常、鄙道ヲ通り、此ノ地二輻輳スル運送品ノ取扱ヲ為セル肝要ナル大市街ナリ。
又高崎ノ地位ノ好良ナル及、商業ノ繁栄ナル、加之東京ヨリ此ノ地二至ルノ中間二於テハ工業ノ格別二容易ナル二拠テ考フル二、此ノ線路ハ現時営業セル東京横浜問ヲ延長シ以テ利スル所アラントスルニ付テハ、第一二着手スベキモノナリ。
とあり、高崎の重要性を強調していることがよく分かる。ボイルは中山道の未開不便な地方にこそ鉄道を敷き、運輸の不便を解消する、このことが日本海沿岸の地方の開発につながり、ひいては日本経済の発展のためにも「中山道幹線」が必要であるとしている。
高崎が市制百十周年を迎えて、このボイルの高崎についての見識を私は忘れてはならないと思う。
ジョルジュ・イレェル・ブスケ
Georges Hilaire Bousquet(1843~?)
明治初期に高崎に着目したふたりの外国人
明治初年の高崎を記したフランス人
高崎が交通の要所であることから、多くの人の往来があった。そして、旅人が見たままの高崎を書き残している。
維新直後の新政府は、近代化を図るために多くのお雇い外国人を招いた。明治5年(1872年)にできた官営富岡製糸場は、高崎に外国人の姿を見るきっかけになり、また、外国人の訪れもあった。
中でもジョルジュ・イレェル・ブスケは、同胞の富岡製糸場の首長ポール・ブリユーナを訪れたときと日光を訪れたときの、二度高崎に来ている。
ブスケは、明治5年お雇い外国人の中で法律家として最初に来日し、9年に帰国するまでの四年間滞在、その間日本の法制度の近代化に大きな貢献をした人である。ブスケは、ナポレオン三世の第二帝政期のフランス産業資本主義の最盛期に育った。この26~29歳の青春横溢する日本近代化の若き指導者ブスケは、仕事の傍ら、未知の国の真の文化の姿を求めて、交通機関の未発達な状況下に四国・九州を除いた日本全土を踏破している。
当時の日本は、文字どおりの大激動期・大転換期で、先ごろまでの鎖国の眠りから覚めて、西欧にその基本を求めての近代化への胎動をし始めた時であった。そして、その文化の著しい相違を鋭敏な感性でとらえ、それらを明せきに分析して『日本見聞記』を著した。
“高崎には一万戸の家がある。したがって住民は25,000人であると推定できる。(中略)ここには昔「シロ」があり、今は取り壊されているが、まだ500人の駐屯兵が住んでいる。(中略)私はあるとき歩き回っているうちに、一つの学校が開かれているのを見つける。私は子供の態度に心打たれる。空気と光とが至るところに流通している。この国には、普通の文字を読み書きできない一人の男も一人の女もなく、12歳を超える子供でそれができないものは一人もいないということが信じられるだろうか。”
これは、ブスケが日光への旅の途中に記した明治六年の高崎である。高崎は今大いに変ぼうを遂げようとしている。ブスケが見たらどのような言葉を聞かせてくれるだろうか。現代の日本社会の外ぼうは、ブスケの見た日本と比較できないほど変わった。『日本見聞記』から察すると、ブスケは「外ばうは変わっても、日本人の心はほとんど変わっていない」と言うであろう。つまり、精神の近代化は訪れていないということである。高崎が21世紀に向けて外ぼうだけでなく、市民一人ひとりがその精神の変ぼうへの努力をし、真の21世紀日本のシンボル都市を目指したい。まずは、文化に関心を持つことから、それは始まる。
※この原稿は、高崎広報誌に連載され、その後「おはなし高崎人物伝」として出版されたものからの抜粋です。著者である吉永哲郎先生の許可を得て掲載しています。