高崎アーカイブNo.11 たかさきの街をつくってきた企業

吉村染工場(1845〜1932)

幻の技法から生まれた鮮やかな紅
絹織物の流通拠点高崎を代表する染め

女性の下着を彩った染色技法「紅板締」

紅板締の胴抜着物

 かつて着物の襦袢、裾除といった女性の下着類を彩った染色技法に「紅板締」がありました。型板(模様を彫刻した版木)に薄絹をはさんで染める技法で、はさまれた部分が染色されずに残り、鮮やかな赤地に桜や菊や吉祥文様などが白く浮かび上がりました。昭和初期に途絶え、技法に不明点も多く幻の染色技法といわれています。
 紅板締は江戸時代まで、京都の染色業者23軒が株仲間をつくり独占状態でしたが、幕末から明治維新の激動の中、道具が世に出回るようになり、高崎では吉村染工場だけが手がけるようになりました。

地・水・素材の利に恵まれた高崎で発展した染色業

 高崎の染物産業は、慶長3年(1598)、箕輪城主の井伊直政が高崎城に移ったことに伴い、染物職人も一緒に移住してきたことが始まりといわれています。染物職人が住んだ場所が、現在の元紺屋町です。
 高崎は中山道の要衝で、人や物、情報の行き交う商都として、江戸時代から栄えてきました。また、染料を洗い流すのに欠かせないきれいな水が豊富で、付近は素材となる「生絹」の産地でした。特に西上州は養蚕から製織までのすべての工程を一貫して行い、農家の副業として繭から引いた生糸や玉糸を原料にして織られた絹織物「生絹」は、主に「裏絹」と呼ばれ、着物の裏地や胴抜着物、襦袢などの表地に使われました。
 毎月5と10の日に市が開催された田町の絹市場は、明治28年(1894)に建物が新築されました。高崎を中心とした西上州地域の絹織物はここで取引され、染工場で無地の紅絹や紅板締になった裏絹が全国に送り出されました。

紅絹専門の吉村染工場の創業

 武州熊谷で「蘇芳染」の技を習得した初代吉村平兵衛は、弘化2年(1845)高崎・相生町で開業し、屋号を田村屋としました。蘇芳染は、鬱金を使って黄色く下染めし、マメ科の蘇芳を煮出した赤色の汁に浸けて染める方法。明治に入り化学染料が輸入されると、三代目の平七(本名・安太郎)は、明治8年(1875)、これまでの蘇芳と鬱金に代わる化学染料を使った「猩々紅染」を開発しました。
 そして、明治18年(1885)には色落ちしにくい染色技術「堅牢紅染」を開発し、数年後には京都のものに優るとも劣らない品質を実現。明治22年(1889)には「板締染法」を開始し、堅牢な染色技術の獲得に成功しました。
 少し黄味のかかった濃厚な緋色の紅絹は高崎を代表する染物となりました。

吉村染工場の隆盛と業界の繁栄をめざした四代目平七

吉村染工場(明治末期)

 吉村染工場と紅染は、明治27年(1894)に勃発した日清戦争による好景気を追い風に、三代目平七の妻・与祢と四代目平七を継いだ息子の奮闘により全盛期を迎えました。明治43年(1910)年頃の染色量は高崎の紅染の半数以上を占め、従業員は20人程でした。
 煉瓦造りの三階建のモダンな工場は高崎を代表する近代建築として存在感を放ち、並榎に新築した別邸では、長野堰から流れる川の水を引き込み、池に船を浮かべるという羽振りのよさでした。
 また、四代目平七は早くから家業に励み周囲の信頼も厚く、明治45年(1912)に35歳で高崎染業組合の頭取に選出されました。当時、高崎の問屋等が京都へ頼んで染めている金額が70万円に達しており、これを地元に回してもらうことをめざして「高崎染色研究会」を設立。田町の絹市場内で「一市四郡染色競技会」なども開催し、高崎の染色技術をアピールしました。また、大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し、染料の暴騰が起こると、「関東紅染業組合」を結成し染め代の値上げに踏み切るなど、常に業界のためにリーダーシップを発揮しました。

廃業へ

 吉村染工場では、日清戦争後に全盛期を迎えましたが、日露戦争あたりから「白張絹」に圧倒され、次第に売上げが減少に向かいました。大正期には「婦人裏地は紅絹に限る」と再び盛り返したものの、大正10年(1921)をピークに経営状態が悪化。昭和になっても染色の売上げは回復せず、「昭和7年7月30日、時代の変化に伴い事業困難となり、母・与祢と熟議相談の結果、廃業することに決定…」と、四代平七が「感想録」に残した通り廃業しました。初代が高崎に移り住み、創業してから87年後のことでした。

『たかさき紅の会』が 復元する紅絹

 「火の色、命の色として神秘の力を持つ紅絹は、身につけて暖かく光沢は艶やかに美しく人々を魅了してきました。紅染や紅板締を施された薄絹は、和装の間着や長襦袢に仕立てられ、母から娘へと大切に扱われ愛されてきました」と話すのは、四代目平七を祖父に持つ染色家の吉村晴子さん。「たかさき紅の会」を主宰し、吉村家に残る型板を使って試行錯誤を重ねた末に、幻の染色技法といわれた紅板締の復元に成功しました。
 復元された作品や、吉村染工場の当時を知る資料などを、2月24日(日)から3月24日(日)まで開催される『高崎市文化賞受賞作家展』(高崎市タワー美術館)で、実際に見ることができます。

※参考資料『よみがえる紅―高崎の絹と染工場』(たかさき紅の会発行)