高崎アーカイブNo.16 たかさきの街をつくってきた企業

帝国陸軍「高崎連隊」と「高崎陸軍病院」
(1880〜1945)

軍都の遺産。医療技術の蓄積により戦後の地域医療の礎を築く

殖産興業と富国強兵のもとに

 近代国家として出発した明治日本は、「殖産興業」と「富国強兵」を掲げ世界の強国入りをめざしました。しかし、当時の日本には生糸や絹織物以外にこれといって外国に売り込む商品もなく、明治6年(1873)に徴兵令が制定されたとはいえ、平時で3万人弱の規模の陸軍と、木造艦まで合わせても17隻しか持たない貧弱な海軍しかありませんでした。政府は地租以外の収入は多く望めず、国民に過重の経済的負担が強いられ、各地で反政府一揆が頻発、また特権を奪われた士族による反乱も相次ぎました。
 群馬の地に、殖産興業のシンボルというべき「富岡製糸場」「新町屑糸紡績所」が建設され、また富国強兵の一翼を担った「高崎連隊」が設置されたのは、まさにその激動の時期でした。

高崎連隊と隣接した陸軍病院

高崎城址一帯の兵営跡地について、久保田高崎市長が県知事にあて、土地・建物の借入申請を行なった。旧東部第38部隊の配置
(群馬県立文書館蔵県行政文書より作成)

 高崎兵営は、明治5年(1872)に東京鎮台の高崎分営となり、第三連隊が明治7年に東京から移駐、16年に新設された第十五連隊が昭和15年(1940)に関東軍に編入され、「満州」チチハルへ移駐するまでの駐屯地でした。この間、日清・日露戦争はじめシベリア出兵・上海事変・日中戦争のいずれにも高崎から出陣し、アジア太平洋戦争ではチチハルから南方戦線パラオ諸島へ派遣されました。このほかにも次々と高崎で編制された連隊が兵営を使用しました。
 この兵営に隣接して陸軍病院がありました。明治7年(1874)3月に兵営内に新築した病室が手狭になり、12年8月に本格的な病室が落成し、翌年には伝染病室、霊安室なども完成し「高崎分営重病室」と呼ばれて傷病兵を収容しました。20年1月にさらに規模を拡大した重病室が兵営西南隅に落成し、翌21年5月に名称を「高崎衛戍病院」と改称しました。衛戍とは駐屯という意味です。

兵営を苦しめた伝染病の多発
森鴎外が上下水道改善を提案

 第三連隊当時から毎年、隊内に脚気患者が発生しましたが、当時脚気はビタミンB不足から起こる病気であることがわかっていなかったため、主に転地療養・転地行軍や兵舎内の消毒によって発生の防止に努めていました。また、明治15年(1882)6月には高崎市街と近村にコレラが発生、7月8月と猛威をふるい3カ月間で死者数百人を出す大流行となり、兵営にも伝播して八人が感染し、うち4人が死亡しました。18年12月には腸チフス患者が発生し、伝染病室を開設しましたが、翌年も腸チフス患者が増加したほか、4月に疱瘡患者が発生、6月になると市街で発生した疑似コレラ病も営内に侵入し、患者二人中一人が死亡するなど、伝染病室は休む暇がありませんでした。明治35年(1902)に検閲に訪れた第一師団軍医部長森林太郎(鴎外)は、6月20日付の第一師団長宛の意見書で、上下水道の緊急な改善策を提案しました。
 兵営内においても良質な井戸水を得る努力が続けられましたが、水を生み出す地層そのものが汚染されていたため効果は上がりませんでした。
 明治33年に高崎に市制が施行され、初代市長となった矢島八郎は、完全な水道敷設をさしせまった課題として取り組み、明治43年(1910)剣崎浄水場を完成させました。これにより、市人口の3万6千人と十五連隊の兵員千人の計3万8千人に給水してなお余裕のある規模でした。

戦地へ出征した医師たち
終戦後は国立高崎病院となる

聖石橋のたもとにある龍廣寺の陸軍墓地には、日本将兵の墓石257基があり、その多くが明治期の陸軍病院での病死者です。

 明治6年5月から昭和20年12月に至る70余年の沿革史が614頁に収められた「高崎陸軍病院歴史」には、軍隊内における疾病の発生状況や傷病兵の治療、病院施設の推移などが記されています。
 明治27、28(1895)年の日清戦争の場合、病院長以下職員の多くは戦地の野戦病院、兵站病院や衛生隊付きとして出征し、病院自体が「高崎陸軍病院予備病院」と名称が変更になり、予備役軍医、民間医や民間薬剤師などが採用されたことが記載されています。
 また、明治8年(1875)に旧幕臣で初代軍医総監となった松本良順が兵舎や病室の巡視に来たことや、松本の弟子で高崎出身の張秀則軍医の動向も度々記録されました。
 昭和11年(1936)、再度「高崎陸軍病院」と改称され、翌12年からの日中戦争以降、戦争の激化とともに患者数も増加し、昭和20年(1945)五月には温泉旅館を利用した伊香保分院、磯部分院を開設しました。8月の敗戦時、本院・分院合わせて千人を超える患者がいましたが、8月末に伊香保分院を、10月末には磯部分院を閉鎖。そして11月20日から軍人以外の一般の人への診療を行うことになりました。12月1日、高崎陸軍病院は一時的に軍事保護院管理下の「保護院高崎病院」を経て、同月5日厚生省医療局の管轄に属する「国立高崎病院」となりました。
 現在は国立病院機構高崎総合医療センターとして、更なる医療の向上と地域医療の連携強化に務めています。

※参考資料『群馬の戦争遺跡』(平和文化)、高崎市史〈資料編12・補遺資料編〉、「帝国陸軍 高崎連隊の近代史 明治大正編」前澤哲也著