高崎アーカイブNo.18 たかさきの街をつくってきた企業

髙島屋ストア(高崎店)(1931〜1977)

地元商店街に衝撃と変化をもたらした大手百貨店の進出

高崎の集客力に期待
髙島屋ストアの出店

 交通の要衝で集客力の高い商都高崎は、県外資本にとって大変魅力のある商圏でした。大手百貨店が地方への出店を進める中、昭和6年(1931)に県下で初めて、大阪の百貨店髙島屋系列のチェーンストア「髙島屋ストア」が連雀町に出店しました。東京25店、大阪24店、京都8店とチェーン展開し、高崎・桐生・前橋にも及びました。
 全ての商品を10銭均一で販売する髙島屋ストアは、着物姿の店員がいて、女性や帽子の男性客で大賑わいの開店を迎えました。店内は広く、品物も豊富なうえ、いろいろなものが安く買えると好評でした。

共同ネオンを飾るなど区域の連帯意識を強めた商店街

 髙島屋ストアの高崎への進出は、市内の小売業界に衝撃を走らせました。
 連雀町親交会・新町商店連合会・本町商和会をはじめ、小売業界の人たちは、緊急な対応を迫られました。
 小売業更生の方策として個人商店の経営努力もさることながら、町を単位とせずに街区を単位とした一定の面的広がりをもった区域商店街として振興させようという気運が、ネオン街建設運動を契機に高まりました。
 昭和9年(1934)頃、新紺屋町で白熱灯を連ねた鈴蘭燈をつけて「すずらん通り」と名づけたのを皮切りに、連雀町では、昭和12年(1937)四月、電車通りならびに大手前通りに70余基の「連」の字に各店舗の店名や取扱商品を表示した共同ネオンが軒を飾りました。
 昭和12年、髙島屋ストアは改装され、10銭のほかに20銭、50銭の商品を売り出しますが、すぐに日華事変が始まり、商品がなかなか手に入らなくなりました。

県外や地元資本、地元商業者の共同経営によるデパートの開業が相次ぐ

 戦後、昭和26年(1951)に中央銀座商店街協同組合が設立され、昭和37年(1962)には市内中小商業者の販売促進と大型店に対抗するため、地元商業者の共同経営によりデパート方式を採用した「中央デパート」が設立され、旧高崎観光貿易館跡(宮元町・現スカイビル)にオープンしました。
 昭和36年(1961)には、取扱商品の良さや従業員の接客の良さが人気となった「八木橋高崎店」が目抜き通り(現あら町)に創業。四階は食堂、屋上はこども遊園地になっていて、顧客獲得に大きな役割を果たしました。
 「戦後王座を極めていた新紺屋町、寄合町の中央銀座通りが、大手町、田町、鞘町の一画に押され気味になってきた」と昭和38年(1963)9月の高崎市民新聞が述べているように、大型店の出現により、人々の流れが中央銀座から南側に移動しつつありました。
 昭和39年(1964)には地元資本による藤五百貨店、昭和43年(1968)にはスズラン百貨店が開店しました。
 この頃大型店として、ほかに田原屋(鞘町)、「中央スーパー」(宮元町)、「フードセンター」(本町)、「おしゃれデパート」(寄合町)、「緑屋」(現あら町)、「うろころスーパー」(寄合町、南町、石原町)、「本店タカハシ」(鞘町)、「十字屋」(連雀町)、「さくらや」(通町)、「丸専デパート」(現あら町)などがあり、昭和43年度の商業統計による市内小売業(約3,000軒)の総売上高500億円の約3割を占めました。

競合する駅周辺部と市内中心部の大型店、商店街

 人の流れの変化に危機感を募らせた中央銀座商店街では「中央銀座アーケード」の設置に取り組み、昭和45年(1970)に第一期工事が完成しました。
 昭和50年代に入ると、昭和51年(1976)に高崎駅周辺に、ニチイ高崎店(現在の高崎ビブレ)、ダイエー高崎店、高崎髙島屋など大型小売店が相次いで開店。
 高崎髙島屋の開業は高崎倉庫会社の要望がきっかけでした。高崎は東京近郊都市としては小売サービスの立ち遅れが目立ち、特にファッション、インテリア、レジャー用品などが不十分であると指摘。そして、東京百キロ圏の中核都市としてのまちづくりに協力したいと訴え、地元商店との協調路線を打ち出しました。
 髙島屋の開業により、当時の高崎の小売業に新風を起こした髙島屋ストアは閉店となり、役割を終えました。
 一方、中心部では、昭和48年(1973)に藤五百貨店が藤五伊勢丹となり、昭和50年に新館が開店しました。昭和53年には中央銀座アーケードが全域完成し、中央銀座通りから藤五へ向かう大勢の人の流れで賑わいました。

郊外化の動き

 昭和57年に上越新幹線高崎駅が開業し、駅ビルモントレーがオープンすると、駅周辺の大型店と市内中心部の大型店、商店街との競合の時代となります。しかし一方で、モータリゼーションの発達等により、郊外に向かう人々の流れが目立つようになりました。
 通産省の商業統計調査によると、年間販売額構成比において、郊外が市中心部を上回ったのは昭和54年のことでした。

※参考資料「高崎市史 通史編」「高崎市史 資料編」「マチの生活と民俗の変化―商店・職人・町並み・生活―」(編集・発行 高崎市)