高崎アーカイブNo.20 たかさきの街をつくってきた企業

高崎市民新聞(1950〜2010)

戦後民主主義の地元定着を担ったGHQお墨付きの模範新聞

群馬県新聞発祥の地
新聞が短命に終わる高崎

 昭和15年(1940)、戦時統制の一環として、県下の新聞七社、上毛新聞(前橋)、上州新報(前橋)、群馬新聞(前橋)、上野新聞(高崎)、両毛織物新聞(桐生)、上毛日日新聞(前橋)、東毛新聞(館林)が、上毛新聞一紙に統合されて以来、群馬県内で日本新聞協会に加盟している日刊新聞社は『上毛新聞』だけとなりました。この新聞統合が行われるまでは、県下各地で数種の日刊新聞が発行されており、とくに高崎は明治6年(1873)、宮元町にあった誠之堂という出版元から刊行された『書抜新聞』が県内新聞の始まりで、県下新聞発祥の地という栄誉を得ました。
 しかし、新聞の質という面でみると、前橋に比べ高崎の新聞発行事情はあまり芳しいものではありませんでした。前橋では、百年を経て続く『上毛新聞』をはじめ、『上州新報』『群馬新聞』といった有力日刊紙が伝統を受け継いで発行されていたのに対し、高崎で長く続いた日刊紙は『上野日日新聞』の後を継いだ『上野新聞』が昭和15年まで30年程続いたのが良いほうで、あとは3、4年から短いものでは2、3か月で廃刊に追い込まれるものが多く、高崎は新聞経営には適さない町という定評がありました。

新聞の発行に挑む人が後を絶たない

  『高崎案内』という刊行物には「高崎は昔から商業都市として立ち、錙銖(わずかなこと)の利を争ふに忙しく、従って不生産的な新聞事業などに投資することを好まない功利主義と、他の政治都市の如く言論宣伝の必要を知らない保守主義と、大体この二つに帰することが出来るようだ…」(昭和3年刊)。当時5,000号を超える日刊紙は『上野新聞』一紙のみという状況を見れば、真理を言い当てているようですが、一方で次々と新聞発行に挑戦した多くの高崎人がいたこともまた事実でした。

高崎に誕生した新聞のいろいろ

 自由党の勢力を背景に自由主義を掲げるとともに、地方自治と養蚕製糸業の地域産業の振興にも目配りした『上毛自由』。高崎米穀取引所の広報紙として発行された『高崎商業日報』。当初は不偏不党、産業重視を目指したものの、他紙との競争の激化から、旧自由党系の憲政党色を強め廃刊に追い込まれた『群馬新報』。吾妻郡原町の町長と県会議員を兼務した木檜三四郎が、代議士への足掛かりとして社長に就任した『上野日日新聞』は、明治40、41年に最盛期を迎え、前橋の上毛新聞の発行部数を抜きましたが、高崎から総選挙に立候補した木檜が落選すると、経営権は兵藤和三郎の手に渡りました。その後、高崎での新聞発行にこだわった木檜は『上野日日新報』を発刊するも、明治45年(1912)5月に廃刊となり、『上野日日新聞』のほうは、大正2年(1913)6月に前橋の上野新聞社に吸収合併されました。

戦時下の新聞統合

 陸軍特別大演習のあった昭和9年(1934)の「高崎日刊新聞連盟の趣意」によると、『高崎夕刊新聞』、『上野新聞』、『新群馬日報』、『関東日日新聞』、『群馬日日新聞』、『上州毎日新聞』、『上毛毎日新聞』の七紙が高崎で競合していたことがわかっています。
 昭和15年(1940)には戦時下一県一紙の新聞統合のため『上毛新聞』に合併される県下六紙中、高崎は『上野新聞』一紙のみだったことから、他の新聞は既に廃刊となっていたといえます。

戦後民主主義の定着を促進
GHQが進めた『高崎市民新聞』

 戦後の高崎では、昭和22年(1947)三月創刊の新『群馬新報』が、用紙難などのため不定期刊になり、昭和25年1月まで続きました。その廃刊後、悪質な新聞の横行に苦しんでいた市民に新しい新聞の発行を促したのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の新聞課でした。
 アメリカは自国流の民主主義を日本に定着させたいと考え、その方策の一つとして、アメリカ各地で民主的な世論形成に大きな影響力を持つ地方週刊新聞を日本の各都市にも普及させようとしました。GHQ新聞課長のインボデン中佐は高崎で講演し、民主主義と地域社会の発展には郷土新聞の発行が欠かせないと説き、高崎市民に新しい新聞発行を決意させました。
 市民100人の株主から20万円の資本金を集め、昭和25年(1950)6月の創立総会を経て㈱高崎市民新聞社は誕生しました。社長には、戦前貴族院議員にもなった高崎きっての富豪で社会教育にも貢献した櫻井伊兵衛が就任。スタッフは編集主任の岡田稲夫以下群馬新報社のメンバーが多く加わりました。
 創刊号は2万部が印刷され、市内全家庭に無料配布されました。以降、一部10円、一カ月30円で二号からの購読者は、3,362部となりました。発行日を日曜にし、出来るだけ多くの市民を紙面に登場させるなどの努力が実り、購読者、広告利用者ともに増加し、一期目から利益を計上しました。

市民新聞をモデルにした映画

映画『高崎での話』で撮影された市民新聞社内

 GHQは『高崎市民新聞』の成功を他都市にも普及させようと、一年の歳月と数百万円の巨費を投じて映画『高崎での話』の制作に取りかかり、市内各所で撮影が行われ、小島弘一高崎市長をはじめ、スタッフが俳優顔負けの演技で登場しました。昭和26年(1951)九月に完成した映画は、高崎、前橋で封切られ、その後全国で上映されました。
 また高崎市民新聞社では、市民音楽祭や学校新聞コンクール、ミス高崎コンテストなど各種催事活動に取り組みました。
 戦後の歴史と共に育ち、高崎市民に密着し親しまれてきた『高崎市民新聞』ですが、著しい時代の変化の中、読者離れによる経営不振から、本来の使命を終えて平成22年3月に休刊となりました。

※参考資料『高崎市史研究15』(高崎市史編さん専門委員会編集・高崎市発行)より「高崎の新聞」(清水吉二著)