高崎アーカイブNo.24 たかさきの街をつくってきた企業
理研コンツェルン
高崎地域の工場群(1938〜1943)
高崎製造業の母体となった理研コンツェルンの工場群
商業都市から商工業都市へ
積極的に工場誘致を展開
群馬県は日本有数の蚕糸業・絹織物業を軸とする絹業県として発展してきましたが、昭和5年(1930)に世界恐慌により、大きな打撃を受けました。蚕糸輸出が急落し回復しなかったこともあり、不況からの脱却も遅れました。
昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、蚕糸業・絹織物業に代わって軍需産業が急速に勃興し、高崎市は商工業都市への脱皮を図るため、高崎駅東側の東三条通り沿いの地域を新たな工業地域として位置づけ、積極的に工場誘致を行いました。
高崎商工会議所会頭の山田昌吉は、久保田宗太郎高崎市長と協力し、旧高崎藩主大河内氏同族の大河内正敏が主宰する理研コンツェルンに働きかけ、理研製機㈱、理研電磁器㈱、理研水力機㈱、理研空気機械㈱、理研合成樹脂㈱の工場が相次いで設立されました。
発明を工業化し全国に企業集団を築いた理研コンツェルン
「理研コンツェルン」は、昭和16年(1941)の最盛期には、東京を中心に全国に62社、121工場を持つ大企業集団でした。その創始者は「㈶理化学研究所」の第三代研究所所長の大河内正敏子爵で、科学と工業を一体化させるため、発明の工業化という手法を用いて、“産業複合体”の形成を推進しました。 大河内氏は昭和2年(1927)に㈱理研興業を設立し、今でいう“持ち株会社”として中心に据え、全国に企業集団を誕生させました。
高崎に誕生した理研産業団
設立当初の理研製機 高崎工場
高崎における最初の工場誘致をきっかけに、その後の商工業都市としての発展の基礎が築かれました。昭和13年(1938)、理研の系列工場では大量の若年労働者の募集が行われました。
理研電磁器㈱は、昭和12年7月に理研ピストンリング㈱から独立し、昭和13年8月に柏崎から高崎に移転、敷地1万坪に1棟200坪の工場を完成させ、マグネチックチャックの大量生産を開始しました。
理研水力機械㈱は、昭和13年に外部企業を買収し、さらに生産の大拡張を図って高崎市江木町に1万坪の敷地を買収して第2工場を建設。品川工場からの航空機部品部門の移転に伴い、航空機用燃料ポンプ、同用特殊活栓など飛行機部品の専門工場としての性格を強めていきました。昭和14年には敷地1万4,000坪、建坪1,300坪、工場7棟がありました。
理研空気機械㈱は、外部企業を買収して昭和一四年九月に理研傘下に編入されました。軍用リベッター、チッパー等の生産。高崎工場は昭和14年8月に着工、敷地1万6,000坪、200坪の工場を6棟建設しました。
理研製機㈱は、外部企業を買収して昭和12年に設立されました。各種ジャッキ類等の量産、小型エンジン、特殊工作機械、治具、測定器具の生産を図り、また鋳造工場も建設して鋳鋼の自給も図った遠大な計画で、昭和13年6月に高崎で第2工場の建設に着手。2万五5,000坪の敷地に21棟の工場建設を計画しました。
昭和15年(1940)に理研電磁器㈱が水力、空気機械を合併して理研電機製造㈱を設立し、一気に中心的地位を占めました。
理化学研究所が事業化した理研合成樹脂㈱の高崎工場は昭和14年(1939)に竣工しました。
理研コンツェルンから中島飛行機の傘下に
理研系諸企業は、東京(27業種64工場)、新潟(11業種15工場)、群馬(8業種8工場)、神奈川(3業種5工場)、大阪(4業種4工場)、千葉(3業種3工場)などがありました。東京に基盤を作った後に、低賃金労働力獲得や交通の利便性を求めて、新潟から前橋、高崎に多数の企業、工場が設立されました。しかし、グループ企業の統括性を欠いたため資金繰りに行き詰まり、昭和16(1941)年7月に理研コンツェルンの大再編が実施されることになりました。
戦争の激化に伴い、すでに軍需産業の中心的な位置を占めていた太田地域の「中島飛行機㈱」が高崎への進出を計画していることを知った久保田市長が、遊休化していた理研電気工場の一部の斡旋・仲介を試みました。その結果、理研合成樹脂を除いた高崎の全理研工場は中島飛行機㈱の傘下に組み込まれました。その後「榛名航空工業㈱」へと改組され、昭和20年の終戦を迎えて「榛名産業㈱」と改称。国鉄の鉄道保線機器の製造で、昭和25年まで存続しました。
理研コンツェルンをルーツにした高崎製造業の多様性
理研コンツェルン(理研産業団)は一大工場群を形成し、昭和13、14年頃は4,000人も働いていたといいます。そのときの技術者・労働者が後に、高崎を中心に機械金属加工、電機部品製造、化学工業などの分野で起業し、高崎産業界の中心的な役割を果たすようになりました。
大手メーカーを頂点にした企業城下町とは違い、所有する技術・ノウハウが多様化していたため、協力関係を構築しやすいという環境が生まれました。それが高崎の製造業の一番の特徴です。近年注目されるものづくり集団「高崎art製造projectカロエ」の活躍も、こうした高崎の町工場ならではのものづくりを継承しています。
※参考資料/「群馬産業遺産の諸相」(高崎経済大学附属産業研究所編)、高崎市史(通史編 現代)、「榛名航空工業・榛名産業で働いた人々」