パラオで玉砕した高崎15連隊

(2015年4月9日)

写真を拡大高崎15連隊

天皇皇后両陛下がパラオご訪問

 天皇皇后両陛下が、太平洋戦争の戦没者の慰霊などのためパラオをご訪問されている。
 パラオでは、高崎15連隊が玉砕し、戦後、関係者や遺族が遺骨の収集と友好を進めてきた歴史がある。

●高崎15連隊とパラオ戦
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦で、南太平洋諸島の防衛は米軍の日本本土上陸を阻止する生命線となった。グアム島の南西にあるパラオ諸島は、南太平洋の制海空権を握る要衝の一つで、高崎15連隊は昭和19年2月に満州から南進命令を受けて、水戸第2連隊とともに派遣された。
 15連隊の第3大隊が水戸連隊の守備するパラオ本島の南、ペリリュー島に移駐した。ペリリュー島には飛行場があり、米軍にとってフィリピン、沖縄攻略の足がかりとなる重要な地点であった。高崎連隊第3大隊は、島の南部平坦地に配置され、米軍の上陸地点となることが予想された。
 戦闘は昭和19年9月10日、米軍機百数十機による空襲に始まり、13日には空母10、巡洋艦13、駆逐艦20の砲撃を受けた。15日、米軍は予想通りペリリュー島南部に上陸。当初、米軍は同島の戦力を軽視し、3日~4日間で陥落させ、パラオ諸島全体が容易に制圧できると考えていたようだった。しかし、要塞化したペリリュー島は難攻を極め、戦闘は長期化した。本島の師団本部は、米軍増援部隊が到着する前にペリリュー島に逆上陸する作戦を決定、9月22日、15連隊第2大隊が困難の中で上陸に成功した。
 米軍は持てる限りの火力、兵力を投入し、島は焦土と化した。2カ月余の持久戦となり11月24日、ペリリュー島の師団は「サクラサクラ」の訣別電文をパラオ本島の本部に打電し、玉砕した。最後の兵力は50人余、小銃と弾薬20発、数個の手榴弾が残っていただけだったという。
 日本軍の戦死者1万人、米軍の被害も大きく戦死者1700人、傷者数は8千人に上った。精鋭戦力を失ったため、パラオ本島の上陸を断念しフィリピンへと向かった。
 ペリリュー島を守備した水戸連隊と高崎連隊が作成した同島の地図は、日本名で地名が付けられ、島北部の山は「水戸山」、南部の湾は「高崎湾」と記されている。高崎湾の海岸は、両軍の流した血で赤く染まり、米軍からはオレンジビーチと呼ばれたという。これだけの戦闘があったにもかかわらず、日本軍が島民を避難させていたため、島の民間人に犠牲者はいなかったという。