上野三碑の魅力と謎を説く

(2009年11月)

上野三碑の魅力と謎を説く

シンポジウム「上野三碑ー輝ける古代群馬の至宝」/県立女子大で群馬学

 第十七回群馬学連続シンポジウム「上野三碑?輝ける古代群馬の至宝」が十月三十一日に群馬県立女子大学で行われた。高崎市と吉井町が合併し、多胡郡がふたたび一つの地域になり、来年には多胡碑に刻まれた多胡郡建郡千三百年を迎えることから、市民の関心は高く、会場は満席となった。


 富岡賢治学長は「群馬の古代に光を当て、上野三碑を探っていく。古代史は一度味わうと抜けられない魅力を持った世界。今日は妖しい魅力を持った世界にお誘いする第一歩として楽しんでほしい」とあいさつ。同大学生による箏曲や群馬県雅楽愛好者会による雅楽の演奏も行われ、来場者を楽しませた。


◇昔を語る多胡の古碑ー日本語を書き始めた人々

(県立女子大学群馬学センター副センター長・熊倉浩靖)


 古代群馬は、東国文化の中心地として巨大な古墳や優れた埴輪、多くの金製品、豪族居館を生み出したが、なぜか国宝が一つもない。国宝は美術工芸品や刀、仏像などの重要文化財の中で特に優れたものに与えられる言葉で、史跡や天然記念物には適用されない。史跡の中で特に優れたものは特別史跡と呼ばれ、国宝が全国で1千件あるのに対し、特別史跡は六十件しかない貴重なものだ。群馬県は国宝が一件もないが、特別史跡は三件もある。その三つとは山ノ上碑及び古墳、多胡碑、金井沢碑から成る上野三碑だ。合併により。三碑は全て高崎市となっているが、旧多胡郡内に存在している。極めて集中性が高い。


 山ノ上碑は681年、多胡碑は711年、金井沢碑は726年に建立された。およそ奈良遷都をはさむ五十年といえる。平安遷都以前で完全な形で残っていて、年代も確実なものは、この三碑以外にはいくつも無い。


 碑文には古墳から仏教への思想的な流れ、庶民レベルでの生活と信仰、中央政府と地域との関係、渡来人とその文化の定着の様子など豊かな内容が記されている。今日は上野三碑が日本語で書かれていることに焦点を当てて報告したい。


 私達は固有の文字を持っていなかった。中国から文字を借りて来ざるを得なかったが、語順が全く異なっている。漢字導入から数百年は、人名を音表記する以外は漢文のまま使っていた。七世紀前半、聖徳太子の時代でも全て漢文で、大化の改新あたりから漢字に日本語の音を当て、日本語風に漢字を並べて読むことが本格化する。山ノ上碑より古く確実な例には、650年前後の法隆寺観音像の台座銘がある。


 山ノ上碑が建てられた681年前後は極めて注目される年である。この頃から歌が書かれた木簡や万葉集の素材などに多様な日本語表記が出始める。千三百年以上前に書かれた山ノ上碑を私達が読めることは感動的だ。山ノ上碑は日本語で読める日本最古の碑である。最も重要なことは書かれた碑を周囲の人が読み継ぐことができたことだ。碑は読まれて初めて意味がある。読み継ぐ人々が周辺に居続けたことに価値がある。


 多胡碑は山ノ上碑に遅れること三十年、奈良遷都の翌年になる。多胡碑は、中央から来る行政命令書とは明らかに違った書き方がされている。まず漢文が和文になっている。そして自分たちが新しく郡を作ったのだと、主体的な営みで撰文されていると見られる。当時の国のトップの陣容は穂積皇子、左大臣が石上(いそのかみ)麻呂、右大臣が藤原不比等で、多胡碑には、穂と積は神を表す示偏が使われ、石上尊、藤原尊と書かれている。「尊」は天皇やそれにつながる神にしか使わないと決められており、あえて尊と書かれていることは、土地の人々にとって、神と考えられるような存在だったのだろう。自分たちの立場から書かれた碑だということが伝わってくる。


 より多くの県民が議論を深め、現地に行って改めて碑を見ながら価値を称揚していただきたい。「未来を照らす多胡の古碑」でもあると思う。


シンポジウム 「上野三碑ー輝ける古代群馬の至宝」

○パネリスト

久保信太郎(多胡碑記念館初代館長)

松田猛(高崎市立倉渕川浦小学校校長)

泉谷八千代(NHK大阪放送局番組制作部長)

北川和秀(群馬県立女子大学教授)

司会=熊倉浩靖。

松田 私は今年の春まで県の文化財保護課や埋蔵文化財事業団で文化財保護や史跡の整備を担当していた。群馬県史の通史の編さんも担当した。


 山ノ上碑は佐野三家(みやけ)の子孫、放光寺の長利僧が母の黒売刀自(くろめとじ)のために建てたと書かれ、隣接する山ノ上古墳とも関わりがあるとも考えられている。墓碑として古墳に関わりのある、日本では稀な例だと思う。三家は中央政府が地方に打ち込んだくさびと言われており、大化の改新で廃止されたものの、地方では依然として大きな力を持っていたことが、碑文からわかる。黒売刀自を中心とした母系の血縁関係を示す上でも、貴重な資料になっている。


 自然石の平坦な面に書かれていることや書風から、朝鮮半島の影響が考えられる。多胡碑、山ノ上碑周辺からみつかっている遺跡、資料から新羅を中心とした渡来人の影響が考えられている。


 山ノ上古墳は、大和と直接つながった古墳技術であり、佐野三家が中央と非常に強いパイプを持っていたことも想定される。放光寺は前橋市の山王廃寺であることが、現在までの調査で有力になっている。


 多胡碑は片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良郡の三つの郡から三百戸を割いて新たに多胡郡を建郡したことを記した碑で、奈良時代の正式な歴史書「続日本紀」に六郷を割いたと記録されている。当時はまだ「里」と言い、一里が五十戸であることから、二つの資料は整合性を持っている。


 碑文は「弁官符」という言葉で始まるが、弁官符という公式の文書様式は無い。かなり特異な文書形式だったと考えられる。多胡碑は、多胡郡を建郡した豪族が、中央政府と非常に密接な関係を持っていることを、地域社会の中で誇示している。郡衙(ぐんが=役所)の入り口か、屋敷に建てられていたのではないか。多胡碑の近くに多胡郡衙の跡がどこかにあるはずだ。今後の調査が期待される。


 当時、碑を誰もが読めたかということは難しく、字の読める人が声を出して多くの人に読み聞かせた可能性も高い。


 金井沢碑も山ノ上碑と同じ自然石で、細かい字が刻まれている。彫りが細くて浅く、風化し読むのが難しい。今から百年、二百年前に取られた拓本も、重要な資料になるだろう。三家にかかわる氏族として物部などが出てくる。西上州では資料の中に物部の名が多く見え、物部の力が顕著だったのではないかと考えられている。


 日本では、中国、朝鮮に比べ、碑を作って自分の功績を残す意識は希薄だったようだ。山ノ上碑では、中央で廃れてしまった古い書体が使われており、渡来人との関係が深い地域の特色を表している。


 上野三碑の研究も進展し、研究され尽くしたのではなく、更に新たな展開を始めている。上野三碑のような古代の金石文が存在していること自身が稀であり、しかも当時の律令制度と深く関わり、ごく限られた地域に存在するのは何故なのか。大きな問題だが、まだまだ明快な解答がなされていない。三碑は全く無関係ではなく、多胡郡建郡に集約されるような地域の動向に連動して、歴史的な意義を内包しながら建立されたのではないかという説も立てられている。


 この地域は、布の生産が盛んに行われおり、また国分寺の改修に、この地域から大量の瓦が供給されていたことから、大規模な窯業生産地域でもあった。当時の最先端の産業システムを持っており、中心地域であったと考えられる。


 特別史跡は、碑と碑が建てられた土地を合わせて指定されていることが重要だ。国宝はあくまで物だけだ。歴史を持った土地とともに指定されていることに上野三碑の価値がある。


北川 日本に漢字が入ってきたことによって、漢字による日本語表記が何百年も行われてきた。最初は、伝えたい内容を中国語に翻訳し、漢文にした時代が長かった。漢字の意味を捨て、音だけを借りて表記する万葉仮名、訓読みが時代とともに使われ始めた。


 山ノ上碑の「佐野三家(さののみやけ)」では、「佐」が万葉仮名。「野」は野原の「の」で、「野(や)」を「の」と訓読みすることも定着していたと思われる。「みやけ」の語源として、「み」は天皇や朝廷、神に付く接頭語。「やけ」は建物、役所の意味で、「みやけ」という言葉が作られている。「み」が漢数字の三で書かれ、本来の数字の三の意味ではなく、日本語の「み」の音だけが取られている。「ひい、ふう、みい」の「み」だ。「黒売刀自(くろめとじ)」は、「くろ」が訓字で音訓が混用されている。


 碑文は、漢文の文法とは全く関係なく、日本語の語順の中で書かれているので、全体が簡単に訓読できる。しかし、助詞、助動詞を万葉仮名で記述するまでには至っていない。


久保 史実や資料に、風土、生きた人の営み、心の内を加えて歴史を考えてもいいのではないか。

 私は小学校の時に多胡碑を知った。吉井町の池(多胡碑のある地域の字名)に御門という場所があり、郡衙があったとおぼしきところ。そこから通う同級生、「みかど」のぶんちゃんが、「べんかんのふ?」と言いながら廊下の雑巾がけをしていた。「ぶんちゃん、おまじないか」と聞くと、「これは多胡碑の碑文だや」と言われ、私は子どもながらカルチャーショックを受けた。池の子ども達はおじいさんや先輩から教わり、碑文を暗唱していた。多胡碑への誇りもあり、愛唱といってもいい。


 多胡碑の前の森に養蚕農家がある。そこの三男坊にたっちゃんがいた。彼は予科練に行き、あと二週間で九州の航空基地から花と散る運命にあったが終戦を迎えた。ふる里に帰ってきたが母の顔を見たら涙がこぼれそうなので、表へ出て、多胡碑の森へ入って行った。人肌のような色をした多胡碑を見て、ふる里に無事に帰ったのだと胸が熱くなったという。


 感動を受けるような文化財が、全国にいくつあるでしょうか。御門の人たちが自分たちの宝として守っていればこそ、千三百年残った。


 幾多の文人墨客が多胡碑を訪れている。文献の初見は、室町時代の連歌師、宗祇の弟子・宗長が書いている。江戸期には、下仁田の学者高橋道斉が沢田東江を連れて訪れ、「一日見ても飽きない」と拓本を打った。その一枚が朝鮮通信使を通じて中国に渡り、三十九字が書の見本として採られている。多胡碑は、歴史資料でありながら、書で有名になっている。多胡碑には文人がたくさん訪れているが、たくさん拓本を取るので多胡碑が傷むというので、寛永年間に拓本を禁じ、村の人に守らせた。官と村人の両方で守っていた。


 多胡碑はエンタシスのようで、池の人たちは「はらみ石」と呼んでいる。「石良し、字良し、姿良し」だ。


泉谷 不明で申し訳ありませんが、多胡碑は全く知りませんでした。多胡碑をよく読んでみると、ある物語を思い出した。多胡碑の石上尊、藤原尊、これはもしかしてと思い出したのが竹取物語。竹取物語は九世紀の終わり、もしくは十世紀に書かれたと言われている。


 かぐや姫に求婚した男に、あれを取ってこい、これを取ってこいと難題をふっかけ、ほとんどの男が恥をかいたり死んだりして貴族達がひどい目に会う非常に意地悪な作品。


 竹取に出てくる貴族は、石作りの皇子が多治比嶋という人らしい。多胡碑の多治比真人は三宅麻呂と言い、多治比嶋の弟らしい。車持の皇子が藤原不比等、中納言石上のまろたりが石上麻呂と推定されている。車持ちの皇子は、群馬と関係があるらしい。母方の流れで実は不比等も群馬と関係ある。


 穂積親王、石上麻呂、藤原不比等のオールスターの顔ぶれが揃う。多治比三宅麻呂は、東山道の巡察使をしていて、私の想像ですが、その時に、当地に立ち寄ったのではないか。そのご縁で、正五位下多治比真人が建郡に骨を折ったのではないかなと、ちょっと楽しい想像をしてみた。


 この頃の平城京は、強引に藤原京を遷都したとんでもない時期だった。多胡郡の渡来系の人たちが相当な技術を持っていたと考えると、中央政府は、彼らの技術がのどから手が出るほど欲しかった。不比等たち三人は多治比真人を通じて建郡し、この地の人たちは、不比等たちスーパースターの名を借りるのはとんでもないことなので踊り上がるほどうれしかったのではないか。中央政府はお墨付きを与えて、技術が何が何でも欲しかった。そんなかけひきがあったのではないかというのは、テレビ屋のあくまで想像。


 上野三碑の実力を今回初めて知った。感謝申し上げたい。


松田 千三百年前から多胡郡周辺は非常に産業の進んだ地域であったと思われる。技術を持った渡来人が早くから群馬に入ってきている。古墳からも朝鮮半島の影響を受けた遺物がたくさん出土している。上野三碑の下地は、古墳時代から既にあったと思う。


北川 東歌で一番多く出てくるのは伊香保、次が佐野。多胡は二例ある。


熊倉 藤原不比等はまさに古代のスーパースターだった。日本の古代国家を創り上げたのは不比等だと思う。中臣鎌足の次男で、律令体制の基盤全てを作り上げた。彼は中臣鎌足と妻・車持君国子(くるまもちのきみくにこ:男性)の娘、与志古娘(よしこいらつめ)の間に生まれた。兄の定慧(貞恵)と年が離れ、天智天皇と与志古娘の間に生まれたという伝説があり、竹取物語では車持の皇子と呼ばれたのではないか。車持君は、上毛野君六族の一つで、群馬郡はもともと「くるま」の郡で、車持君につながっていると考えられている。そして車持君は、かなり古い時代から登場しており、この地に最初に現れた可能性が高いと私は考えている。


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