ちょんまげ時代の高崎

第二十二話 高崎以外にも領地が

ちょんまげ時代の高崎:第二十二話 高崎以外にも領地が

 高崎藩八万二千石と言うが、これは拝領高のことで、我家に残っている「領地全図」には、入り高や新田高などを足すと九万五百石強と記されている。高崎城下周辺の片岡、群馬、碓氷、那波、緑野の五郡で約五万六千七百石。片岡郡は石原や寺尾、群馬郡には東に前橋市の大友や元総社、上新田や稲荷新田があり、北は群馬町の棟高や箕郷町の上芝、西は榛名町の上里見が見られる。碓氷郡は豊岡、那波郡は玉村の角淵、緑野郡は山名などがあり、現在も町名として残っている。


 この他に、時代によって出入りがあるが、江戸後期には越後国蒲原郡一の木戸(現在の新潟県三条市他)に二万一千三百石、下総国海上郡飯沼(現在の千葉県銚子市と海上町)に五千六百石、武蔵国野火止(現在の埼玉県新座市)に二千八百石が高崎より離れた領地、所謂「飛地」があった。一の木戸は輝貞公が村上に転封された時に与えられ、飯沼は間部詮房が大名になった際に与えられたが、いずれも輝貞公が高崎に戻ってからも高崎藩の飛地であった。


 飛地領は不安定なため、一の木戸では三代輝高公が大阪城代になった時幕府領として召し上げられ、代わりに摂津国有馬などが与えられた。ところが、一の木戸の領民は幕府領になるのを嫌って、高崎藩領での存続を求めて陳情し、高崎に戻ったことがあった。


 飛地には陣屋が置かれ、郡奉行、留守居役、代官が配置され善政を敷かれていたようで、一の木戸でも銚子でも逸話が残っている。一の木戸では代官が帰藩することになった時に残留運動が起こった。また銚子では、天明の浅間大噴火とその後の冷害による飢饉の際、独断で米蔵を開け、餓死者を出さなかった代官庄川杢左衛門の徳に対する伝承は、三十三回忌に頌徳碑が建てられ、盆踊り歌に「じょうかん様」として残されている。

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