ちょんまげ時代の高崎

第二十三話 幕末騒がしかった飛地

ちょんまげ時代の高崎:第二十三話 幕末騒がしかった飛地

 高崎藩領の飛び地の中で、一の木戸は約二万五千石と最も大きく、藩高の四分の一強を占めていた。越後国蒲原郡だから、勿論米どころで、重要な収入源であった。もうひとつの銚子は五千六百石強に過ぎなかったが、一の木戸に負けない重要財源であった。と言うのも、銚子は漁業と醤油によって発展した町であったからである。寒暖二潮流が交差する絶好の漁場に伴い発展した漁業の運上・冥加金(税金)と、醸造に適した気候風土と材料の入手しやすさから、醤油は大消費地江戸を控え大きな収益を上げた。そのため「銚子が倒れる」に繋がるから縁起がよくないと、酒の席で空になった徳利を横にするなと教えられたものである。


 二カ所の飛び地は、幕末には時代の波に晒され騒がしかった。『高崎藩近世史略』に銚子海防のことが書かれている。日本沿岸に外国船が現れるようになったので、江戸湾沿岸は譜代・外様の区別なく四十数藩が持ち場を割り振られ警備に当たっていた。高崎藩も銚子が領地であったことから、九代輝聴(てるとし)公は家老堤順美(よりみ・私の四代前)ほか海防掛を銚子に派遣し、海岸を巡視し、測量させ、砲台十二に修理と巨砲五門の鋳造ににより、防御を厳しくさせた。ペリーの黒船が来航する二年前のことである。


 長岡藩に隣接した一の木戸はもっと大変だった。戊辰戦争の際に、この飛び地は地理的事情から奥羽越列藩同盟に加担する一方、本藩の方は新政府の命令に従わざるを得ず、同じ藩が敵味方となってしまった。そして、長岡藩との軍議の席で「栃尾に出兵してきた高崎本藩の兵が元込め銃で頑強に奮戦するので困る」と皮肉られてしまった。越後で戦っていると板挟みになってしまうので、同盟の義もあり会津軍に投じ奮戦し、大いに戦績を上げたが、戦死者も出してしまった。頼政神社境内に、下仁田戦争の戦死者と共に「褒矣招魂碑」が建てられている。

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