高崎名僧列伝

詩僧といわれた「僧三」

高崎名僧列伝:詩僧といわれた「僧三」

 烏川にかかる聖石橋を望む若松町の台地上に曹洞宗の龍廣寺がある。山門に掲げられた山号は高崎山で、高崎の誕生と大いに関係がある。天正十八年(一五九〇)箕輪城主の井伊直政は、城の鬼門除け堂宇を設けることとし、翌年、下野国富田の大中寺から白庵秀関大和尚を招いて、龍門寺の開山とした。慶長三年(一五九八)井伊直政は箕輪から和田の地へ移ることになった。城地鎮護のために白庵に千人法憧を行わせると共に、和田の地名を改めることについて、直政は相談した。鷹が崎とか松が崎の案もあったが、白庵は「諸木に栄枯ノ時アリ、・・成功高大、義ニ取テ高崎トシ玉ハンハイカガ」と意見して高崎にしたとし、竜門寺の末寺となった龍廣寺の山号も高崎山としたのである。


 龍廣寺のすぐ西は頼政神社である。江戸時代半ばとなり、大河内輝貞が源頼政にゆかりの神社を建て、大染寺を別当寺とした。ここは景勝の地であったので文人が集まり「高崎八景」を詠んでいる。


 江戸時代の後半ころ、龍廣寺に詩僧といわれた十八世の一乗和尚がいた。詩(漢詩)名を「僧三」といった。この僧三は越後国の出身で、郷里を出て山城や宇治において修行をし、以後二十年余り諸国を巡歴して高崎へ来た。


 当時高崎とその近辺に多くの文人がいて交流があった。ことに文政期に鈴木恭齋という人物がきて聿脩堂を開いて経史を講説したり、詩文をつくり、さらに詩書画筵を開いた。秋田出身の恭齋がきたのは菅谷帰雲という学者がいて、世話をしたからである。「藤陰叢書」という文集を編さんし、ここに多くの文人が集まった。毎月十七日を会日として、帰雲のほか馬場若水、池上東昌、安中玄洋や僧三もいた。この「藤陰叢書」は文政八年(一八二五)の刊行であるが、その二年後、高崎新町の延養寺の良翁が編さんした『伊呂波便蒙鈔』のために三丁に及ぶやや長文の序を書いている。宗派を超えての寄稿は詩文に親しんでいた詩僧「僧三」にふさわしい業績であった。


 

 僧三はまたの名を睡々子、三園、卍庵(まんじあん)ともいった。当時江戸の文人との交際があった。江戸時代後期の儒者であり、詩文家としてしられた寺門静軒(一七九六~一八六八)や、江戸の四詩家の一人といわれた大窪詩仏(一七六八~一八三七)などである。静軒は天保年間の江戸の風俗をかくすことなく書いた『江戸繁昌記』を出版したが、天保改革で発禁処分を受けたこともあり、一時高崎の僧三がいた龍廣寺に身を寄せていたことがあり、弘化年間に江戸へ帰った。


 弘化三年(一八四六)に板鼻宿の島方松蔭は諸名化の寄題を求めて「放歯放生詩集」を刊行したが、この中にも高崎の僧三の作品があった。睡々子三とは僧三である。


 題尚歯会  睡々子三

老々尊々名教門(老々尊々 教門の名)

生々物々慈悲根(生々物々 慈悲の根)

恵風薫席簇和気(恵風の薫席 和気むらがる)

寿考頌成伝子孫(寿考頌を成して子孫に伝う)


 尚歯会というのは七十歳以上の老人を集めての祝賀をしたことで、高崎公園内にも大正七年九月創立の高崎尚歯会の記念碑が建っている。僧三は鈴木恭齋のことばによれば「性資高潔、戒を持することはなはだ厳、為に世の推重するところなり、禅那看読の間詩書を好み、山水を描けりと。」僧三はかつて高崎の名勝二十景を選び、これを描き、一図ごとに一詩を賦して座右におき、日々これを眼にして香を焚き、茗を煮もってみずから楽しんだという。僧三の著「江南鷓鴣(しゃこ)抄」中筆跡が龍廣寺には多く残っているほか、詩仏の書も庫裏にある。


 飯塚町の常黙庵(曹洞宗)境内に文政十年(一八二七)の「千部供養塔」が建っている。撰文は本寺である長泉寺の十九世恵鎮素明であり、堂々とした「千部供養塔」の文字を龍廣寺の僧三が書いている。

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