たかさき町知るべ

高崎

たかさき町知るべ:高崎

 江戸時代から明治のはじめまで、単に「高崎」あるいは「高崎宿」とよばれていた高崎は、明治11年に「西群馬郡高崎駅」、22年には「高崎町」となった。そして明治33年、1900年に市制を施行した。


 この「高崎」の名前は、地名の年代からみるとそう古いものではなく、慶長3年(1598)、当時「和田」と呼ばれ、廃城となっていた和田城跡に、新しい城を築いた井伊直政によって命名されたものである。


 井伊直政は徳川家康の家臣、徳川四天王の一人といわれた武将で、家康が豊臣秀吉の「関八州を治めよ」の命令によって、父祖伝来の三河から江戸に入府したあと、家康の命によって、関八州の要であった箕輪城主となった。


 寛永元年(1789)に川野辺寛が著した『高崎誌』によると、「慶長三年、中山道の要地であるとして徳川家康は直政に城を築かせた。この時直政は松ケ崎としたらどうかと、竜広寺の白庵師(一説に恵徳寺の僧英潭)に問うた。白庵は、それはよい。しかし草木には栄枯があり、公が命を奉じてここに築城されることは大事業である。したがって、この事業の成功高大の意をとって高崎とされてはいかがでしょうかと答えた。直政はこれを大いに喜んで、高崎と命名し、その上、高崎の二字を竜広寺の山号となすように命じられた」とある。


 以後、城を中心に城下町が計画的に作られていった。「本町」は町割りの基準となったものである。しかし直政による都市づくりは、まもなくおこった慶長5年の関ヶ原の合戦によって中断、戦後は近江国佐和山城へ転封となったため終わった。


 高崎の城主はその後酒井家次、松平康長、信吉。安藤重信、重長、重治。松平(大河内)輝貞。間部詮房。再び大河内輝貞となって、以降、版籍奉還に至るまで、大河内氏が続いた。


 慶長4年(1868)9月8日をもって明治元年と改められた。260年余という長きにわたって、皇室と幕府という両頭の国家体制に終止符がうたれ、天皇制のもとに新政府が樹立された。中央集権国家として地方制度の確立が急がれたのであったが、急激な改革による混乱を避け、一応、旧大名の行政方式をそのまま残すというおだやかな手段がとられた。


 江戸時代からの高崎は、明治2年(1869)6月には全国藩主の版籍が奉還され、藩主大河内輝聲(てるな)はあらためて藩知事に任ぜられた。大参事以下の官吏も旧藩士が任ぜられた。


 続いて明治4年(1871)7月、廃藩置県があって、高崎藩は高崎県となり、県庁舎は城内二の丸に置かれた。新県には知事を置かず、安岡良亮が大参事に任ぜられて東京から赴任した。


 やがてこの年の10月28日高崎県、慶応4年6月からあった岩鼻県などは廃されて、第一次の群馬県が誕生し、県庁は高崎に置かれ、11月19日旧城内に開庁された。


 明治5年(1872)学制がしかれた。また旧城内は、正月早々兵部省に引き揚げられることになった。そのため止むを得ず県庁は前橋旧城内に移った。


 翌6年1月15日、第一次群馬県は埼玉の北半分の入間県と合併して熊谷県となった。県庁は熊谷市に、旧群馬県側の支局は前橋から高崎に移された。


 明治9年(1876)8月21日、熊谷県は解体し第二次の群馬県が成立した。県庁舎は旧城が兵部省の所管であったため、適当な建物がなく、安国寺を仮庁舎とした。このころ地租改正などの業務があって、庁舎狭隘のため、仮庁舎を前橋に置き、14年2月26日正式に県庁は前橋に移った。


 明治11年(1878)12月、西群馬郡に属していた高崎宿は、高崎駅となり、戸長役場は元紺屋町の善念寺に置かれた。市役所の前身である。


 11年後の明治22年(1889)4月1日、高崎駅は下和田、下並榎、赤坂の三カ村と飯塚村の一部を合併して町制を施行し、町役場を宮元町に置いた。初代町長には矢島八郎が就任した。このとき後に高崎に合併する江戸時代からの村々は、幾村ずつ統合して新しい村になり、旧村は新村の大字となった。

 そして再び11年後、明治33年(1900)4月1日、高崎町は先進の長野市や水戸市に習って市制を施行した。初代市長には矢島八郎がなった。この時の人口は3万3467人、戸数は5924戸、市域面積は4・87平方キロメートルであった。


 その後昭和2年4月1日、群馬郡塚沢村、同片岡村を合併、次いで14年10月1日佐野村、26年4月1日六郷村、30年1月20日新高尾、中川、八幡、豊岡村、同年8月1日長野村を合併し、31年9月30日京ケ島村の一部を市に、市の一部を京ケ島村に、また同日大類村、多野郡八幡村、32年8月1日岩鼻村一部を、34年4月1日群南村の一部を市に、市の一部を群南村に、36年4月1日中大類町の一部を群南村に、38年3月31日倉賀野町を、同年同日群南村の一部を市に、市の一部を群南村に、40年1月1日八幡町の一部を安中市に、40年9月1日群南村を合併などの分合があって、現在の大高崎となった。


 平成12年4月1日満百歳を迎える高崎市は3月1日現在、人口は24万44371人、世帯数は9万4138世帯、市域面積は110・72平方キロメートルである。

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