たかさき町知るべ
本町(もとまち)
高崎城ができ、城下に町がつくられはじまったときからの町である。北は末広町、成田町、四ッ屋町、西は赤坂町、南は九蔵町と嘉多町と堰城町、東は椿町となっている。
「本町」の町名は、町割りの「根本」、「基本」の意味で命名されたもので、慶長三年(一五九八)城の移転とともに誕生した町である。ここはまた、旧和田宿時代の中心でもあった。
江戸時代のはじめ、高崎宿の問屋場は、本町だけに置かれていた。和田宿時代からの問屋で、問屋年寄であった梶山与三右衛門の家には、永禄七年(一五六四)の『武田信玄朱印状』、元亀元年(一五七〇)の『土屋右衛門尉下知状』、武田氏からの『問屋許可状』などの古文書が残されている。江戸中期以降、梶山家の裏には佐渡金蔵が置かれていた。
この町は、田町、新町とともに「高崎三伝馬(てんま)」といわれた伝馬宿をつとめていた。「伝馬」とは、幕府ほかの公用の際に人員や馬を出す役割の事で、町役にとって楽ではない大きな負担であった。高崎の三伝馬は、毎月一日から一四日までを「本町上番」、一五日から二二日までを「田町中番」、二三日から三〇日までを「新町下番」として継立事務を扱っていた。
本町は、中山道に沿って町並みがあり、また、町の西方は三国街道の分岐点でもあったので、諸国の商人ほかの旅人の往来が頻繁となり、近郷近在からの物資の集散地としてもにぎわいをみせていた。
「本町」には、「新町」とともに旅篭(はたご・宿屋)がたくさんあった。「金升屋」もその一つで、ここへは文化九年(一八一二)小林一茶が宿泊している。加賀金沢商人、越中加州領商人、信州商人の定宿であった「万屋」、富山商人の定番であった「田島屋」、他に「穀屋」、「福田屋」などがあった。
この町の管理下にあったのが、君が代橋のあたりにあった「烏川河岸」で、筏場があり、江戸への物資の積出しが行なわれていた。のち、この筏場は高崎城の西下を通過することから、これを避けるため、下流の聖石のあたりまで下げられた。
「本町」は、高崎以外では、太田、桐生、館林、伊勢崎の「ほんちょう」。前橋は「ほんまち」。薮塚も「ほんまち」がある。これらはいずれも、都市計画の基本となった町という意味である。