たかさき町知るべ

田町(たまち)

たかさき町知るべ:田町(たまち)

 江戸時代城下の中心であった町で、北は九蔵町、西は新紺屋町、寄合町、中紺屋町、鞘町、南は連雀町、東は北通町、元紺屋町、白銀町となっている。


 この町の名は、慶長三年(一五九八)箕輪から高崎への移城の際に、箕輪城下にあった「田宿」を移し、「田町」としたことによる。


 慶長七年(一六〇二)には、それまで本町から椿町、九蔵町、北通町、通町を経由していた中山道を、一本西の田町を通るように変更した時から、本町、新町とともに伝馬役(てんまやく)をつとめるようになった。これは、「高崎宿の三伝馬」といわれていた。


 江戸時代には、高崎宿の問屋場が白銀町入り口近くにあった。この問屋場は『高崎寿奈子』に、「当国第一繁昌の大市なり、商売物造酒屋、酢醤油屋、呉服、絹綿、太物、穀問屋、肴問屋、小間物問屋、鋳物、其他品々卸、小売見世」とある。「お江戸見たけりゃ高崎田町」といわれたように、商店が建ち並び、買物客などで大変なにぎわいをみせていた町であったことが伝えられている。


 町は一丁目から三丁目まであり、明治になって四丁目もできた。一丁目は鞘町へ出る西ノ横町で、ここには薪炭を売る店があって「木町」といわれていた。白銀町へ出る東ノ横町もあった。二丁目は寄合町へ出る西ノ横町で、これは「古着横町」、ほかに白銀町へ出る東ノ横町があり、ここへの角に市神様が祀られ、辻番所もあった。三丁目は中紺屋町へ出る西ノ横丁と、羅漢町へ出る東ノ横町があり、この東への横町は「八軒町」といわれていた。八軒町は明治七年(一八七六)になって四丁目となった。


 江戸時代高崎藩は、田町以外での絹、綿の売買を禁じていたため、五・十日にたつ市は西上州最大の市場となった。珍竹林画廊の西奥に、江戸期から続く絹市場が戦後しばらくまであった。


 江戸時代のこの町の大店(おおだな)は、享保八年(一七二三)開店の京都高麗屋島田善左衛門の支店「袋屋」で、使用人は一〇〇人余といわれるほどであった。このほかに、幕府公許で東日本元締の江戸の秤屋、守随彦太郎の出店、三井出店、近江商人市田孫兵衛出店、越後米、信州米を扱う穀物問屋などがあった。また、宝暦二年(一七五二)には、島屋佐右衛門、同四年には、京屋弥兵衛の飛脚問屋の出店もできた。この二軒は、明治になって四年(一八七二)に合併し、翌五年には陸運会社、八年内国通運会社となった。


 文化九年(一八一二)と弘化二年(一八四五)には大火があったが、その都度みごとな復興をみせ、城下第一の繁栄の町であることを保っていた。


 この町は、現在も高崎の経済の中心地の一つで、町内を南北に通る国道三五四号線沿いには、銀行や保険会社などの金融機関がいくつも置かれている。


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