たかさき町知るべ

新町(あらまち)

たかさき町知るべ:新町(あらまち)

 城ができ、城下町ができたときからの商人町で、北は連雀町、西は桧物町、鍛冶町、東は八島町、南は南町となっている。


 町名は、和田氏が城主であった時代の金井宿、馬上宿のほかに「新しくできた町」という意味で「新町」になったと伝えられている。


 「新町」は、本町、田町とともに伝馬宿をつとめ、高崎城下の「三伝馬」といわれた。伝馬役はその町の名主がつとめていた。


 この町からは砂賀町への東小路と、檜物町への西小路があり、西小路は「湯屋横町」ともいわれていた。元禄一六年(一七〇三)の絵図によると、塩屋一二、荒物屋一〇、穀屋九.酒屋八、小間物屋六、旅籠六、煙草商、紺屋、ふるい屋などが載せられている。


 高崎藩の城下町経営政策として、絹市は田町、旅館は本町と新町、紙販売は連雀町に限られていた。元文三年(一七三八)からは、この町に煙草市場が開設されるようになった。このため、かなり遠方からの煙草仕入れの商人も多く、旅館業が多かった。


 寛保二年(一七四二)の記録によると、矢島屋、播磨屋、田中屋、鯨屋、大津屋、能登屋、湊屋、平形屋、江戸屋、大黒屋、船越屋と一一軒もの旅篭が挙げられている。なお、大黒屋には、享保二年(一七一七)伊能忠敬一行が、土地測量のために宿泊したという記録が残されている。また、同じく享保二年には、高崎でははじめての飛脚屋で、江戸の島屋佐右衛門の出張所がこの町に置かれた。これは上野国内でも最初である。また、これよりも早く、元禄年間(一六八八~一七〇四)には、和倉湯、天狗湯、有馬湯などの湯屋ができている。和倉湯は、創業およそ三〇〇年、今もなお湯屋を続けている。


 幕末、文久二年(一八六二)から慶応二年(一八六六)までの五年にまたがる「新町御伝馬事件」が起きた。この事件の遠因は天明三年(一七八三)の浅間の大噴火で、その被害は年毎にひどくなり、空を覆ってしまった噴煙は、太陽をかくし、農作物の壊滅状態をもたらした。これにともなって、伝馬宿への負担、負架金が多くなった。そこへ、本町一丁目から出た火事は、高崎宿の大半を焼失するという大火になり、新町は全滅状態であったという。


 そこで、新町では町役相談の上で、町の復興のため、旅芝居、角力(すもう)、見世物などの興行と、旅篭に飯盛女を置くことなどの願いを藩に願い出たが、拒絶され、そのために町民は禁じられている「箱訴(はこ)」に及んだ。箱訴とは、享保の改革から江戸幕府に置かれた目安箱への直訴のことで、さまざまな制約があった。


 このような状況下、元治元年(一八六四)幕府軍と戦った水戸天狗党を追討するため、幕府若年寄の田沼玄蕃らが高崎に宿泊、藩はその費用三〇〇両を要することとなり、これを伝馬宿に負担させようとした。しかし、これに応じなかった新町の重役らに対し藩は五人を入牢させ、他の五人を「手錠腰縄つき」の刑とした。この事件は慶応二年になって、本町から救いの手がのべられ、入牢者を放免し解決した。町内にある真言宗の吠瑠璃山正法院延養寺境内には、大正七年(一九一八)に建てられた「御伝馬事件之碑」がある。


 明治一七年(一八八四)鉄道の高崎駅ができると、駅前通りができ、茶屋、荷物運輸業などが盛んとなり、高崎一五連隊の入、除隊関係者の宿泊場所としての旅館業などが繁昌するようになった。


 昭和三二年、駅前通りは拡幅され、町の姿は一変した。平成九年二月には、シンフォニーロードが開通し、周辺の景観はまたまた大きく変わってきている。


 江戸時代、新町の鎮守として祀られた諏訪神社は、市の重要文化財に指定されていて、シンフォニーロードのはじまるところに移建されている。享和二年(一八〇二)高崎をおとずれた太田蜀山人(おおたしょくざんじん)は、その紀行記『壬戌(じんじつ)紀行』の中で、「諏訪大明神の社はちいさき土蔵づくり」と記している。

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