たかさき町知るべ

赤坂町(あかさかまち)

たかさき町知るべ:赤坂町(あかさかまち)

 高崎旧城の北方に位置し、高崎の台地から西方の烏川にさがる途中にある、文字どおり坂の町である。北は上和田町、相生町、西は常盤町、南は堰代町、東は相生町と四ッ屋町と、本町、嘉多町、柳川町となっている。


 町名は、この土地の土が赤く、坂が多かったことに由来すると伝えられている。関東ローム層からなる赤土の露出する坂があっても不思議はない。「赤坂」の地名は古く、平安時代の中ごろにはすでにこの名があったと推定される。江戸時代、高崎の城下町を形成していた武家町、職人町、町・商人町の多くが「元赤坂の持(領分)」であり、「赤坂村」は「飯塚村」、「下和田村」、「江木村」と互いに境界を接していたといわれているから旧市街地の大部分がもとは赤坂村の一部であった。「赤坂」には榎が多く、「榎の森」ともいわれていた。


 慶長三年(一五九八)井伊直政が、箕輪から高崎に城を移し、城下町をつくりだしたとき、赤坂村から本町をはじめとする多くの町を分立させたが、残りは「赤坂村」のまま残っていた。町としての成立は、本町などに遅れること約一七〇年、安永二年(一七七三)のことで、これは、名主落合七兵衛の願いによるものであった。


 町内には高崎神社が鎮座している。この神社は寛元年中(一二四三~四七)に、和田城主の和田義信(よしのぶ)の子、小太郎正信(まさのぶ)が、和田氏の発祥地で相模国(神奈川県)の三浦の熊野神社から勧請(かんじょう)したと伝えられている。明治四四年(一九〇七)旧市内三七社を合祠して、高崎の総鎮守となって翌四一年、「高崎神社」と改称された。地元ではいまも「オクマンサマ」と呼んでいる。


 町内には曹洞宗の二寺がある。一つは松隆山恵徳寺(えとくじ)で、この寺は、井伊直政が箕輪城主であったとき、伯母宗貞尼(そうていに)のために、箕輪の日向峯(ひゅうがのみね)に一宇を建て、「恵徳院」と号していたものを、高崎に移転の際、寺に格上げした。開山は竜山英潭(えいたん)大和尚、門前は竹林になっていたといわれているが、天保年間(一八三〇~四四)には、次第に民家が建てられるようになった。


 もう一寺、赤坂山長松寺(ちょうしょうじ)は、寺領一〇石の朱印をもっていた寺である。もとは本町裏にあり、文明年中(一四六九~八七)沙門元海(しゃくもんげんかい)が開山であり、臨済宗の寺であった。この寺は時移り、荒廃して無住の寺となり、わずかに旧跡を残すだけとなっていたのを、寛永元年(一六二四)興禅寺六世春喜(しゅんき)和尚が中興し、曹洞宗に改宗して隠居寺とした。その後この寺は現在地に移った。この寺の薬師如来像は、和田義盛(よしもり)の念持仏であったと伝えている。また、この寺の庫裏(くり)の一室は、寛永一〇年(一六三三)一二月六日に、切腹自刄して果てた将軍家光の弟、駿河大納言徳川忠長郷の部屋を移築したともいわれ、襖の板戸には血痕が残されている。


 明治三六年(一九〇三)長松寺住職であった山端息耕(やまはたそっこう)師は、商家などへ奉公に来ていた少女たちを対象に、学用品等一切を無償で給与し、「樹徳子守学校」を本堂に開いて教育した。これは高い評価を受け、後、正式許可となり、北小学校の分教場となった。


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