山田 昌吉

やまだ しょうきち(1876~1944)

雄大な構想力と的確な行動力
高崎の近代化に生涯を捧げた銀行家

山田 昌吉山田 昌吉

藩士の子が銀行家に
多くの地域の事業に関与

 山田昌吉は高崎藩士の子だった。父・永五郎は「士族の商法」といわれながらも、雑貨荒物を商い、新規事業を興すなど才能の持ち主だった。

 昌吉は、1887(明治20)年11月、11歳のとき、高崎の九蔵町にあった第74国立銀行高崎支店に給仕として入行した。1916(大正5)年に高崎信用組合理事、1922(大正11)年7月に株式会社上州銀行副頭取に就任。同年、上毛貯蓄銀行の監査役、1923(大正12)年1月、横浜興信銀行監査役になった。茂木銀行支店長時代のことであるが、朝早く散歩をするのを日課とした昌吉は、それぞれの状況を観察し、融資などに活かしたという。

 茂木銀行は、1920(大正9)年の経済恐慌で茂木合名の倒産とともに取り付け騒ぎとなり、高崎支店も危機に陥った。この整理のために横浜興信銀行が設立されたが、昌吉は高崎市内の預金者に迷惑をかけないよう奔走し、小口は即時払い、大口は十年年賦とする措置を講ずるなど手腕を発揮した。

 昌吉が関与した事業として、上州絹糸紡績取締役、信永運輸(株)相談役、関東互欺(株)監査役、前橋冷蔵(株)社長、高崎魚市場社長などがある。

高崎の文化活動や政財界に影響を与えた「同気茶話会」の中心人物

 1903(明治36)年、山田昌吉をはじめ蝋山政次郎、小沢宗平、小島弥一郎ら青年実業家を中心に、高崎に「同気茶話会」が結成された。金融関係では、上毛貯蓄銀行の創立、高崎銀行、積善信用銀行を吸収合併して上州銀行の誕生に寄与し、庶民金融を営む高崎信用組合の設立に尽力した。文化面では、高崎図書館の創設などがある。

 高崎の政財界の動向は、この同気茶話会の影響を受けていった。指導者格の昌吉は、蝋山政次郎(蝋山政道、山田勝次郎の実父・市議会議員)や小島弥一郎(小島鉄工所の小島弥平の長男)と家が近かったこともあり、親交を結び、地域振興や文化活動などを議論した。昌吉の頭の中には高崎の未来プランが描かれており、自己の蓄財に固執せず地域の産業経済、文化の発展に努力を惜しむことがなかった。

横浜興信銀行支店横浜興信銀行支店 上毛貯蓄銀行支店上毛貯蓄銀行支店 上州銀行上州銀行 高崎信用組合高崎信用組合

上信電鉄を再建

 上野鉄道とかかわりをもつことになったのは、高崎水力電気(株)が1903(明治36)年に創立され、1908(明治41)年に山田昌吉が監査役に就任したことに始まる。当時、高崎水力電気は経営不振にあえいでいた上野鉄道の吸収合併の問題を抱えていた。昌吉は1912(明治45)年に高崎水力電気の取締役になり、この問題に関連して手腕を発揮することになる。1921(大正10)年8月、株主臨時総会において合併契約解除に関する協定書、契約書が承認され、翌9月、上野鉄道は上信電気鉄道(株)と改称。昌吉が社長に就任した。

 当時、高崎水力電気と東京電燈の合併話が進められており、東京電燈は経営不振の上野鉄道の吸収の仮契約の解除を求めた。その代償として常時800キロワットの出力をもつ室田発電所付属建物と土地一切を譲渡することになり、上信電鉄は電化の電源を獲得することができた。昌吉はこの鉄道事業の再建に取り組み、1944(昭和19)年に死去するまで、24年にわたって経営にあたることになる。交通事業の将来性、重要性を認識し、上州と信州を結ぶ鉄道に大きな夢をもっていた。

 これまでの軽便鉄道を改め「電化」を計画して、資本金を25万5,000円から、200万円に一挙に増資し、線路の規格を当時の鉄道省規格に合わせ大幅な輸送力のアップを図ることに成功した。沿線の富岡―下仁田をはじめ甘楽郡の産業、文化の振興に貢献した。また、電化は神津牧場荒船方面の観光開発にもつながった。当時、電化は画期的な事業で、東武鉄道の電化完成と上信の電化は、1924(大正13)年のことだった。

高崎商工会議所会頭を23年間務める

 少壮の実業家である山田昌吉は、1921(大正10)年3月に第6代会頭に選出された。当時45歳である。1929(昭和四)年から1931(昭和6)年までの2年間、井上保三郎の会頭時期を除いて、生涯を閉じるまでの23年の長きにわたり会頭職にあり、地域産業経済および文化の振興に傾倒した。太平洋戦争が苛烈を極めると、1943(昭和18)年3月に戦時統制経済への協力を使命とした「商工経済会法」が公布、同年六月から施行されると、商工会議所は解散し、群馬県商工経済会に改編され、昌吉はその会頭に推された。

高崎における渋沢栄一と評される

 「山田昌吉は高崎における渋沢栄一だ」とは東武鉄道の根津嘉一郎氏の評である。渋沢栄一(1840~1931)は、大蔵省を退官した後、第一国立銀行の総監役となり、銀行業を中心に約500にものぼる株式会社の創立・育成に力を尽くし、日本の近代経済社会の基盤づくりに尽力し、経済界の発展に大きな役割を果たした。

 士族出身の実業家という共通点のあった昌吉は、渋沢栄一を敬愛し、その実学思想を尊敬していた。

 そして終生、武士の子である自負を秘かに誇りとし、他人に対して柔和で折り目正しく礼儀を重んじる人物に徹した。

(この稿は高階勇輔高崎経済大学名誉教授のお話と、同氏の著作である「経済夜話」などをもとに構成しました。)

高崎の都市戦略 最新記事

勝ち残る専門店

グラスメイツ
グラスメイツ
メガネ店の店員も買いに来るメガネ専門店
有限会社三洋堂
有限会社三洋堂
パソコン全盛時代に書道のおもしろさを伝える
株式会社清水増
株式会社清水増
見事に転身!繊維卸からお祭り専門店へ

すべての記事を見る