内村 鑑三

うちむら かんぞう(1861~1930)

高崎が生んだ世界的思想家 明治時代のキリスト教指導者

内村 鑑三内村 鑑三

幼少期に過ごした柳川町「内村鑑三先生居宅跡」の石柱(清水法律事務所前)

高崎藩士の子 高崎で過ごした幼少時代

 内村鑑三は、特定の教派や神学に縛られることなく、聖書にのみ基づく信仰「無教会主義」の創始者、伝道者として知られています。また社会評論家、社会運動家としても活躍しました。

 鑑三は、1861年2月13日江戸小石川鳶坂上(文京区本郷四丁目)の高崎藩江戸中屋敷で藩士の父宜之と母ヤソの長男として生まれました。維新の変革や父の転勤により、5歳から8歳、10歳から12歳にかけての幼少期を高崎で過ごしました。高崎英学校で学んだこと、夏に友達とアユやハヤを捕ったことなどを、後に「嗚呼幸福なりし時よ」と回想しています。特に「余の天然物の愛は、烏・碓氷両川の天然物の観察を以て始まれり」と語っているように、水産学研究の出発点でもありました。

キリスト教に入信、渡米
日本人の精神文化を紹介

 1873年、12歳で上京して東京外国語学校に学び、1877年に札幌農学校(北海道大学)の二期生として入学し、水産学を専攻しました。「青年よ大志を抱け」で知られる初代教頭クラーク博士はすでに帰国していましたが、キリスト教精神に基づく全人教育の校風は強く残っており、同級生の新渡戸稲造らとキリスト教に入信しました。

 卒業後、開拓使漁猟科に務め水産学の研究に従事。1883年に上京して農商務省水産課に勤務、安中教会信徒浅田タケと結婚。しかし半年余りで別居となり、傷心のうちに渡米し、新島襄の紹介でペンシルベニア州アマスト大学に入学。1886年J・H・シーリー総長の教えを受けてキリスト教の信仰を深め、日本での伝道を決意し卒業しました。

 帰国後、第一高等中学校在職中、教育勅語奉読式で拝礼しなかった「不敬事件」が非難され辞職。事件後は各地を放浪しながら著作活動に専念し『余は如何に基督教徒なりし乎』・『代表的日本人』などを出版しました。

 『代表的日本人』は、日本人が英語で日本の文化、思想を西欧社会に紹介した代表的な著作です。異教徒や有色人種に対して偏見を持っていた欧米人に対して、日本の誇れる伝統精神を書き表したものです。日本で行われていた徳を持っての教育の大切さを説きました。

政治、公害、戦争への社会批判
無教会主義の提唱

 1894年、日清戦争に際し、日本にとっての“義戦”であることを訴えました。1897年『万朝報』の英文欄主筆として招かれましたが翌年退社し『東京独立雑誌』を創刊。藩閥政府に対して痛烈な批判を展開しました。廃刊後は朝報社に再入社し、足尾銅山鉱毒事件の実態を訴えました。1903年、日露戦争の開戦時にはキリスト教徒の立場から「絶対非戦論」を主張しましたが、『万朝報』が開戦論に転じたため退社し、その後キリスト教徒として信仰と伝道に専念しました。

 1900年に自ら創刊した日本最初の聖書雑誌『聖書之研究』により聖書研究と信仰を重視する日本独特の無教会主義を唱え、教会のない人たちに対して、キリストの真理を伝えようとしました。これは理想のキリスト教国を求めて米国に留学したものの、犯罪が多いことや人種的偏見、拝金主義などに落胆し、日本の道徳主義のうえに築かれた聖書の信仰でないと日本人に受け入れられないと考えたからです。

 生涯、平信徒として聖書の研究と執筆活動を続け、1930年3月28日、心臓病のため新宿区の自宅で69歳の生涯を閉じました。

3つのJ(キリスト・日本・上州人)への想い

 1961年に生誕百年を記念して、高崎公園わきの頼政神社境内に内村鑑三記念碑が市内の工芸家水原徳言の設計により建立されました。鑑三が幼い日に遊んだ烏川を眼下に、遠く浅間山を望む景勝地で、中央の黒御影石に、死の一カ月前に病床を見舞った親友の牧師住谷天来に贈った「上州人」の漢詩が刻まれています。

上州無智亦無才
(上州人は無智にして無才であり)

剛毅木訥易被欺
(意志が強く純朴で飾りけがなくだまされやすい)

唯以正直接萬人
(ただひたすら正直にすべての人に接し)

至誠依神期勝利
(まごころを尽くして神による勝利(恩恵)を待っている)

 晩年の1928年10月、若松町の光明寺に先祖の墓参りをした鑑三は、日記に「噫我も亦上州人である」と記していますが、この詩の上州人は自分自身でもあったのです。

 鑑三は8歳で明治維新を迎え、多感な青年時代にはまだ日本という国家の形が定まっていませんでした。この時代の多くの青年と同様に、国家のあり方を考えることと自分のあり方を考えることは同義といえました。

 札幌農学校卒業の若き日、新渡戸稲造らと生涯を二つのJ(Japan日本、 Jesusキリスト)に捧げることを誓い合いましたが、もう一つ上州のJ(Joshu)への想いがありました。

※参考文献:新編「高崎市史」、「群馬新百科事典」

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