小島 弘一

こじま ひろかず(1911~1975)

戦後高崎の復興に挑む
公選初の36歳の若き高崎市長

小島 弘一小島 弘一

商工会議所会頭も務めた小島弥平の孫

 小島弘一は、小島鐵工所の創設者で高崎商工会議所会頭を務めた実業家の小島弥平の孫に当たります。旧制高崎中学、横浜高等商業を卒業後、現在の高崎製紙に勤務、1936年に25歳で小島機械製作所の社長に就任。

 1947年に36歳の若さで「公選」初の市長となり、2期8年間在職しました。

 1900年の市制施行以来、市長は政府が選ぶ「官選」により決められていましたが、1947年4月5日、高崎市初の直接公選制の市長選挙が、4人の候補者で争われ、青年・婦人層に圧倒的支持を得ていた若い小島が当選しました。

小島市長誕生の背景

 フランス留学から帰国した井上房一郎の提唱により、新たな文化創造を目指して、1930年に「新生会」が結成されました。高崎を中心とした若者たちによって組織され、政治・経済・教育・文学・美術・音楽・演劇・体育の八つの専門分野に分かれて活動し、機関紙を発行しました。高崎の次代を担う青年たちが参加し、1936年に「新人会」に発展、敗戦後の1946年には「三想会」として、地域の文化振興に努めました。この中に若き小島弘一がおり、小島市長誕生に大きな組織力を発揮しました。

「歩く市役所」と呼ばれて

昭和25年、市民と直接対話した「歩く市役所」(映画「高崎での話」より)昭和25年、市民と直接対話した「歩く市役所」(映画「高崎での話」より)

 小島市長は市民を主人公とした市政を目指しました。「市民と直結した行政」として実施されたのが、各町内の代表嘱託員・民生委員・その他役員と市側の市長・助役・課長・市会議員が出席して市民の意見を聞く一方で、市側の施策について理解を深める「市政懇談会」。そして市長・助役・各課長が、高崎裁判所前や八間道路など街頭に出て、一般市民と直接意見交換を行う「歩く市役所」でした。

 住宅問題、火災対策、市民税や衛生問題など市民に直結した関心事をめぐり熱心な話し合いが行われ、可能な施策は直ちに実行に移されたので、市民の期待は大きく大好評でした。また、市政全般を市民に周知徹底させる必要から、「高崎市弘報」を発行しました。

敗戦からの立ち直りを感じさせる二つの大イベントの開催

「新日本高崎こども博覧会」会場に設けられたアメリカ館「新日本高崎こども博覧会」会場に設けられたアメリカ館

 小島市政下で「市制50周年記念」の祝典が盛大に開かれ、5日間にわたり芸能祭・体育祭・商業祭・農業祭などが行われ、9万市民は敗戦からの立ち直りと、高崎の新しい飛躍に向けて一歩を踏み出したことを実感しました。

 また、小島市長の「文化都市大高崎の建設」を目指す施策の一つとして、「新日本高崎こども博覧会」が、1952年四月一日から50日間、観音山一帯を会場に開催されました。高崎線の電化を記念すると共に、サンフランシスコ講和条約が発効され、独立する日本の新しい時代を担う子供たちの幸せを願うものでした。

 200メートルを一周するお猿の電車、丘陵の斜面260メートルの曲線を全速力で滑走するボブスレット、150メートルを超すアメリカ軍輸送機の胴体を入口にしたアメリカ館、象・熊・イノシシなどの動物園等が人気で、入場者数は50万人以上となり、大成功裡に幕を閉じました。

交通拠点性に主眼を置いてきた行政

 1950年、全市をあげて取り組んだ「高崎鉄道管理局」の誘致が成功し、高崎は名実ともに交通拠点都市となりました。かつて、初代高崎市長の矢島八郎もまた、上野・高崎間の鉄道の開通に当たり、自ら敷地を寄付すると共に中山道と駅を結ぶアクセス道路を率先して計画、地元の有志たちの賛助と寄付金によって新設し町に寄付するなど、鉄道への執着は並々ならぬものがありました。市制施行時の矢島市長と、市制50周年を迎えた小島市長。どちらも高崎にとって鉄道交通の大きな節目を、大イベントをもって祝いました。そして、市制100周年を迎えた松浦市政では、高速交通網は目覚しい発展を遂げています。

 余談ですが、小島市政下の1952年、全国各地で反戦・平和運動などが高まり、高崎では夏休みに帰省した学生と高崎在住の学生が一緒になって高崎学生懇話会を結成し、「原爆展」を開催して大きな反響を呼びました。そこに率先して活動した松浦青年の姿があったことに、高崎の気風を感じます。

対抗馬無しで市長に再選

 1951年四月、小島は再選され15代市長に就任しました。「第一回が進歩的な勤労者階級を支柱として当選し、今度は保守派の大勢をバックに出馬を決意」(上毛新聞)して、自由党・民主党両派の保守系の推薦を受け、無競争当選を果たしました。

 過去4年間の実績をもとに、教育面では新制中学校校舎の建設、市立短期大学(現高崎経済大学)の創設等、観光面では観光貿易会館の建設、観音山の遊園地化などが進められました。また、商工会議所法の制定により名実ともに公益法人となった高崎商工会議所が、小島市政と緊密な関係を保ちながら商業振興を図りました。

 小島市政は、戦後高崎の復興とその後の高度成長期の高崎の飛躍につながる土台・基礎づくりを地道に積み重ねた8年間でした。

 第15代市長任期満了後の小島の消息は、明らかではありません。並榎町の常仙寺にある小島家の墓に、1975年10月31日に63歳で没したことが記されています。

※この稿は高階勇輔高崎経済大学名誉教授のお話と、「高崎市史」、「高崎市民新聞」をもとに構成しました。

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