住谷 啓三郎

すみや けいざぶろう(1897~1975) 第16代~19代(30年~46年)高崎市長

交流拠点都市高崎の基礎をつくった住谷市長
―インフラ整備に着手し現代の高崎を形成―

住谷 啓三郎住谷 啓三郎

今日の都市高崎の骨格の全てを作る

 昭和30年4月、住谷啓三郎(54歳)は、第16代高崎市長となりました。

 明治30年7月17日に田町の荒物問屋に生まれ、早稲田大学法学部を卒業後、高崎セロファン工場を創立。昭和七年に高崎市議に当選し、翌年には市会議長、戦後の昭和23年に公安委員、29年まで市の専門委員を務め、市長就任時は前橋市総社町の関東ロクロ会社の社長職にありました。

 住谷市長は初登庁で、次のような趣旨の談話を発表しました。「私は市会の言うとおりばかりではなく、大衆を尊重する政治をやる。都市計画は放射線状の道路を計画し、中心部の道路の幅員を拡げる。町村合併は多野八幡・倉賀野・岩鼻など申し込みのあったものは受け入れる。高崎の催しが群馬会館へ持って行かれるので、すぐに2,000人収容規模の大ホールを建設したい。厚生事業は国民健康保険を赤字覚悟ですぐに実施する。工場誘致は思い切った好条件を付けて実現する。不足している水道水は新しい水源を見つけて拡張する」。この談話は、その後の住谷の政治手法と施策を端的に表わしています。

市役所改革と地域機構を充実

 就任早々、議決権者と執行権者の業務区分を明確にすることを目的に、市役所の全面的な構造改革に乗り出しました。従来の手法が、市政執行に際して市議の干渉を招きやすい点を考慮し、総務部門から独立した市議会事務局を設置しました。同時に、町村合併による市域の拡大と行政事務の増大に対応するため新しい機構をスタートさせました。さらに、市長権限で施行できる「町内事務嘱託員規程」の改正を行い、規程の代表嘱託員の名称を区長と改め、市内232人からなる区長会を発足しました。

群馬音楽センターを建設する

群馬音楽センターと住谷市長の提案で「昭和36年ときの高崎市民之を建つ」と刻まれた石碑群馬音楽センターと住谷市長の提案で「昭和36年ときの高崎市民之を建つ」と刻まれた石碑

 大規模集会所としての群馬音楽センターの建設は、住谷市長にとっても政治生命をかけた一大事業でした。財政問題と第二中学校新築問題がからんで難航しましたが、昭和36年、市制施行60周年と水道開設50周年とを併せて、音楽センター落成記念祝賀が行われました。その席で住谷市長は「前橋・高崎地区が首都圏の一環に指定された現在では、八幡、小八木、大類の各地に大小の工場が続々建設されつつあり、今後も活発に誘致される見込みなので本市の発展は、洋々たるものがあります」と述べました。

 また、住谷市長は「群馬フィルハーモニーオーケストラ」から「群馬交響楽団」に名称を改めた楽団の会長に就任し、運営にもかかわりました。

 都市計画や工業団地の造成を推進してきた住谷市政下で、昭和32年「沖電気」工場の誘致に成功し、39年には「日本原子力研究所」の開所に続き、「キリンビール高崎工場」が操業を開始しました。キリンビールの誘致にあたっては、若田浄水場を新設し毎月30万トンの水を供給するなどの覚書を取り交わしました。

 昭和40年9月には群南村合併をもって、高崎の大合併は完了し、群南工業団地の分譲も始まりました。

 昭和31年より県道高崎中央通り線(旧電車道りの新町、連雀町、田町、九蔵町)の拡張工事が行われ、新町交番前から本町3丁目まで、約一メートルが幅員20メートルの大道路となり、沿線の商店、会社は鉄筋コンクリート三階建の防火建築に改築されて、北関東唯一の近代的商店街が出現することになりました。

 昭和42年には慈光山安国寺の移転が完了し、駅連雀町線(のちの慈光通り)が開通。これによって繁華街が面としての広がりを増しました。

問屋町の造成と高経大を4年制に

 中心市街地にひしめき合っていた卸問屋が、自動車の普及で運搬等営業に支障を来たしたことから、問屋街をつくって集団移転する方針を打ち出しました。母体となる「高崎卸商社街協同組合」が設立され、昭和42年に全国初の卸商業団地が完成しました。

 昭和34年四月市長選で高経大の校舎移転を掲げた住谷市長が再選されると、諮問機関として経大新築促進委員会が結成され、上並榎町への移転が行われました。そして昭和32年、経済学部経済学科の4年制大学として、新たなスタートを切りました。

 また、南部区画整理関係の換地として移転する4つの寺院の墓地を移動したうえに敷地を購入して公園墓地を造成。昭和44年、市が出資して法人組織「八幡霊園」が設立されました。こうした施策により、市街地の都市計画は大きな進展をみたのでした。

広域圏構想に着手 高崎都市圏をつくる

 昭和40年代に入ると、住民の生活様式の近代化・多様化が進み、市町村行政の効率化から行政区画を超えた取り組みが求められるようになりました。41年に高崎を中核として安中市・榛名町・群馬町・箕郷町・倉渕村と碓氷郡松井田町を一体とする地域が、自治省から「広域市町村圏」に指定されました。

 これにより、工業団地の隣接地域への拡大、道路網の整備、広域消防組織や救急体制の一本化、教育施設・福祉・共済に関する共同事業が実施されるようになり、住民の暮らしが大きく前進へと向かいました。

昭和46年に5選目を目指した住谷市長は、中曽根派の全面支援を受けながらも、無党無派の元高崎商業校長の沼賀健次に敗れ、引退しました。

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