山田 勝次郎

やまだ かつじろう(1897〜1982)

不屈の精神を貫いた農業経済学者
私財を投じた活動が、今なお子どもたちに本を送り続ける

山田 勝次郎山田 勝次郎

高崎の歴史的シンボル「山田文庫」

 旧中山道が常盤町で直角に向きを変える角地に、レンガ塀に囲まれた㈶山田文庫があります。明治以前の建物と思われる母屋、土蔵二棟、明治16年移築の茶室、それを囲むレンガ塀は高崎都市景観重要建築物等に指定されています。

 明治・大正・昭和と産業界で中心的な役割を担った山田昌吉と、その娘夫婦の山田勝次郎(旧姓蝋山)ととくが、ここを自邸として活躍しました。高崎の歴史にとって欠くことのできない遺産であり、地域の歴史を将来に伝える商都高崎の歴史的シンボルといえます。

県内の小・中・高校等に図書購入資金助成を目的に設立

移築された幕末のころに建てられた茶室。ここで読み聞かせが行われている。移築された幕末のころに建てられた茶室。ここで読み聞かせが行われている。

 (財)山田文庫は、昭和49年に山田勝次郎・とく夫妻によって創設されました。子供のなかった夫妻は、土地、建物、証券、多数の蔵書などの私財を投じ、群馬県下の小・中・高等学校や養護学校の児童・生徒に図書を贈ろうと、図書購入費を寄付してきました。創立30周年となった平成15年までに235の学校に約4,800万円の寄付を行いました。

山田家と蝋山家の縁で結ばれた夫妻

 勝次郎は、明治30年10月に、酒造家の父・蝋山政次郎と母・キチの二男として、高崎市歌川町に生まれた。大正11年に東京大学農学部農業経済学科を卒業。同年11月に、日本女子大学師範家政学部を卒業したばかりの山田昌吉の長女とくと結婚し、山田に改姓しました。

 岳父・山田昌吉は、東武鉄道の根津嘉一郎氏が「高崎における渋沢栄一」と称賛したほどの経済人。実父の蝋山政次郎は、商工会議所会頭だった昌吉を副会頭として支え、大正4年から昭和4年までの約10年間、経済状況が一番厳しい時期に高崎の経済界を牽引しました。両家は隣近所にあって仲の良い間柄でした。

 勝次郎の兄・蝋山政道は、お茶の水女子大学学長、東京都教育委員会委員長など多くの公職を歴任。行政学研究の先駆的存在として知られています。また、弟の小山長四郎は、松井田の小山家の養子となり、旧美峰酒類㈱の社長を務めました。

優秀な農業経済学者であり共産党員

 勝次郎は大正14年に京都大学農学部助教授に就任、大正15年2月から昭和3年4月まで文部省の在外研究員として、英・独・仏に、夫人とともに滞在しました。帰国した2年後に京都大学を依願退職して以降、「マルクスの資本論」を指導原理として、日本資本主義体制下における農業問題の分析に専念。農業経済学者として多くの著書を出しました。また共産党の大検挙を背景に、勝次郎も所属していた「プロレタリア科学研究所」の共産党関係者の検挙に関係があったとして、昭和7年に多摩刑務所に拘置され、一1年後懲役2年執行猶予3年の判決を受けました。

共産主義思想を持った異色の経済人に

 山田昌吉の急逝により、跡を継いで昭和19年6月に、高崎倉庫㈱社長に就任しました。同年12月には共産主義思想保持者として検挙され、翌年5月まで警視庁に留置され、弾圧に屈することなく、翌年には日本共産党に入党し活躍しました。経営者でありながら共産党員でもあった勝次郎は、従業員を大事にして「従業員組合」を作り、「経営者と従業員の一体的経営という理念」のもとに従業員から取締役を出し、従業員が経営に参画するという理想を追求しました。

 また、会長時代の経営の大きな節目として、昭和52年に高崎駅西口の本社跡に、商都高崎にふさわしい都市型デパート「髙島屋」の誘致に成功し、今日に至る業種の安定と発展の礎を築きました。

 昭和34年には群馬県倉庫協会会長に、翌年には㈳日本倉庫協会常任理事及び㈳全国食糧保管協会理事に就任。昭和39年に、文化人11名と一緒に共産党改革の意見書を発表して党を除名されました。その後、高崎製氷冷蔵㈱社長、会長に就任。高崎倉庫㈱会長を退任し再び社長に就任しますが、昭和57年6月、84歳で逝去しました。

国際人として活躍 夫を支えた夫人

常盤町にある山田文庫。開館/毎週水・木・金・土・日の午前10時〜午後4時。常盤町にある山田文庫。開館/毎週水・木・金・土・日の午前10時〜午後4時。

 一方、とく夫人は、日ソ親善協会常任理事に就任し、昭和30年開催のヘルシンキ世界平和大会に日ソ親善協会代表として参加。日ソ協会常任理事に就任し、親善使節として訪ソするなど、世界平和の運動に活躍しました。戦時中は拘置所にいる夫に差し入れに通い、自身も拘置所生活を送ったこともありました。

 昭和36年に㈱日ソツーリスト・ビューロー取締役に就任。昭和42年には高崎倉庫㈱、高崎製氷冷蔵㈱取締役に就任し、夫・勝次郎が逝去すると、高崎倉庫㈱社長を経て翌年には会長に就任しました。平成2年5月に逝去し、遺言により山田文庫に飯塚町、東町の土地と㈱日ソツーリスト・ビューロー株券を遺贈し、山田文庫の充実発展に情熱を傾けました。

※参考資料:『山田文庫三十年の歩み』

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