村上 鬼城

むらかみ きじょう(1865〜1938)

境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星

村上 鬼城村上 鬼城

龍廣寺にある鬼城の墓龍廣寺にある鬼城の墓)

痩馬の あはれ機嫌や 秋高し
いささかの 金ほしがりぬ 年の暮
麦飯に 何も申さじ 夏の月

 鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。

 実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。

五月雨や 起き上がりたる 根無草
蟷螂の 頭まわして 居直りぬ

など、優れた写生力に加えて、冒しがたく凛とした気品が漂います。

浅間山の 煙出て見よ 今朝の月
雹晴れて 豁然とある 山河かな

郷土色が豊かににじむ句も多彩に残したこともあり、郷土の人々に愛され、旧高崎市内には一五基の句碑が建立されています。

 また、鬼城は高崎はもとより、利根・沼田、藤岡、前橋、桐生、中之条など県内各地や愛知、大坂など県外の俳句結社などに直接・間接的に大きな影響を与えました。

耳の疾病によって夢を断念

 村上鬼城は慶応元年7月20日、鳥取藩士の小原平之進の長男として、江戸藩邸に生まれました。祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。それでも立派な武士の家柄でした。しかし、明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移しました。

 鬼城は本名を荘太郎といいました。明治8年、11歳で母方村上源兵衛の養子となり、村上を名乗るようになりました。幼少時代の夢は軍人になることで、その目的に向かって勉強に励みましたが、19歳の時に耳疾を患い、あきらめて司法官を志します。

 24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも27歳の若さで病死します。耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。

正岡子規の手紙に励まされ 俳句に生き甲斐を見出す

 「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだもの。鬼城が俳句に熱中し始めたのは、代書人になった30歳の頃からです。日清戦争に従軍するため広島の大本営にいた正岡子規に手紙で俳句の教えを乞いました。

 子規の提唱する俳句の革新に共鳴した鬼城は、明治30年に『ホトトギス』が創刊されると、投句に専念しました。「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。

名句が納められた初めての句集『鬼城句集』

 大正2年の春、ホトトギス派の重鎮である高浜虚子・内藤鳴雪を招き高崎で盛大に句会が開催されました。この句会で、脚光を浴びた鬼城は、作句に熱心に取り組み『ホトトギス』の雑詠欄に頭角を現していきます。

 大正5年、52歳のときに、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われますが、法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、約1年後に復職することができました。これ以降、地方の俳句雑誌からの選者依頼、指導を求めてくる人からの添削料など、俳句による収入を得るようになりました。大正6年に出版された『鬼城句集』は広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。ここには鬼城の代表作とされるもののほとんどが納められています。

新居の並榎村舎で俳画や書の才能を発揮

村上鬼城記念館(鬼城草庵 住所:高崎市並榎町288)村上鬼城記念館(鬼城草庵 住所:高崎市並榎町288)

 昭和2年、鬼城が64歳のとき、高崎鞘町の鬼城庵が全焼。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)

 鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌ですが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。

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