桜井 伊兵衛

さくらい いへえ(1887〜1966)

気品に満ちた近代高崎人のとまり木 人と人をつなぐオルガナイザー

桜井 伊兵衛桜井 伊兵衛

親子二代の貴族院議員

 昭和の初め頃、本町一丁目の通りに、「松屋」の屋号と「桜井」の姓を同じくする三軒の大店が並んでいました。それぞれの商売を冠に「蝋燭松屋」「呉服松屋」などと呼ばれ、その向かいには大正一三年に衆議院議員に当選した小林弥七の砂糖問屋「百足屋」もあり、一帯は壮観な大尽通りとして衆目を集めていました。

 桜井伊兵衛は呉服松屋の主人で、その名は代々世襲されました。ここで取り上げる人物は四代目の伊兵衛。明治20年11月2日に、三代目伊兵衛の長男として生まれました。

 明治38年に東京開成中学校卒業後、43年3月まで埼玉県農事試験場・福井県松平試験場で特別研究生として農林・園芸・農業経済などを専攻しました。

 桜井家は大地主でもあり、県内二位の高額納税者だったことから、父親は貴族院議員となりましたが、任期を一年残して死去。大正7年に四代目伊兵衛も30歳で貴族院議員に選ばれ、山林経営や地主小作慣行(仕来たり)など自身の専門分野に限らず、上信電鉄の長野への延長や八高線など各地の鉄道敷設にも熱意を注ぎました。

 また、財界では上州銀行取締役、横浜興業銀行監査役、高崎板紙の取締役等に就任しました。

高崎の人的資源の中心的存在

 伊兵衛は、7年間を貴族院議員として国政に尽くし、任期満了後は高崎で地方文化の発展に生涯を捧げました。

 伊兵衛が活躍した代表的な戦後の大イベントとして、観音山一帯で開催された『新日本高崎子ども博覧会』があります。プロデューサーとして三上隆彦氏をニューヨークから招き、成功に導きました。また、伊兵衛はこのときの模様を記録映画に残しています。

教育分野の充実を図る

 伊兵衛は、大正15年から昭和20年まで高崎市教育会第二代会長を務め、その傍ら県教育会副会長としても実力を発揮しました。帝国教育会長永田秀次郎の信任も厚く、特に会長指名の理事として活躍。日本で開かれた世界教育会議には部会の議長に選出され、国際的にも鮮やかな議長ぶりを見せました。

他にも県教職員適格審査委員会委員長、県温泉審議会会長、群馬大学期成同盟会建設委員長、高崎高等女学校教育振興会長等、幾多の役職に嘱望されて長となりました。伊兵衛の素晴らしいところは、決して名目だけではなく、その全ての役職に献身的に力を尽くしたところでした。

スポーツ・文化の振興に多大な功績を残す

 大正6年に公会堂が有志の手で建てられると、高崎文化向上の一大基地となりました。広い視野と自由な発想を持った伊兵衛は、文芸講演会にも力を入れ、中央で活躍していた吉井勇、竹久夢二、直木三十五らを招きました。

 また、スポーツや文化への興味が旺盛で、華道、写真、ヨット、スキー、その他スポーツ全般にわたって愛好し、それらの発展にも寄与しました。

 観光、放送事業についても貢献するところが多く、後進に対して適切な指導や助言を惜しみませんでした。伊兵衛によって郷土に紹介された技術、人物は非常に多く、郷土の人材や資料が中央に紹介されたことも多大でした。

乞われて『高崎市民新聞』の社長に

 戦後、進駐軍の総司令部新聞課長インポデン少佐が、市民の間に民主的な地方週刊新聞の誕生を希望し、高崎に注目しました。高崎は維新前後に五万石騒動を起こし、農民の平等観が武士たちを屈服させたり、群馬民権運動の先駆者宮部襄の活躍があったりといった歴史から、地方週刊紙の生まれる素地があると考えていました。

 昭和25年に『高崎市民新聞』はスタートし、伊兵衛は推されて社長に就任、終生に及びました。インポデン少佐は、高崎市民新聞に対して「人格高潔者としてその人格見識に定評があり、功成り名遂げてなお活動的な紳士桜井伊兵衛氏を社長に選び、その配達をアルバイトに依ったということは賢明なことと称賛するものである…」と述べ、評価しました。

政治・経済・文化界の重鎮が追悼の会を開く

 伊兵衛が昭和41年11月7日、享年80歳で没すると、政財界や文化界の重鎮たちが発起人となり、心のこもった追悼の会を開きました。

榛名湖畔にある竹久夢二歌碑[榛名湖畔にある竹久夢二歌碑]
明治から昭和初期にかけて主に美人画で一世を風靡した竹久夢二。伊兵衛の招きで訪れた伊香保・榛名湖を気に入り頻繁に訪れました。51歳で没したのち、伊兵衛らによって湖畔に夢二歌碑が建てられました。

 社長を務めた高崎市民新聞には、各界から哀悼の意が寄せられ、「スジの通った理論家」「豊かな時代感覚」「常に旧習打破を実践」「洗練された人格者」といった活字が紙面を飾り、その稀有な人柄と功績を讃えました。

 戦後の農地改革では、不在農地の地主として地所のほとんどを没収されましたが、それを恨むことなく終生公共文化のために尽くした伊兵衛。常に青年のような精神で後輩の指導にあたり、多角的な文化活動の先駆者でした。また、身だしなみスマートな紳士として"貴公子"の愛称で大衆に親しまれました。

※参考資料 『ぐんまの教育』(教育関係人物伝/田島武夫著)、『高崎市民新聞』、『開化高崎控帖』(高崎市役所発行)

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