映画のある風景

6. 映画女優花井蘭子が唄うまち

志尾 睦子

映画のある風景

大正2年に開館し、昭和4年に罹災し、新築された高崎電気館。花井蘭子の映画も数々上映された。

 先月、シネマまえばしにて『むかしの歌』(1939年、石田民三監督)を鑑賞した。主演は花井蘭子。私は『細雪』(1950/監督:安部豊)、『銀座化粧』(1951/監督:成瀬巳喜男)『めし』(1951/監督:成瀬巳喜男)あたりの作品から彼女を知り、その麗しさ、控えめな風貌ながら芯の強そうな凛とした佇まいに一気にファンになった。同世代の山田五十鈴と並んで称される、戦前戦後を駆け抜けた昭和初期を代表するスターであり、映画の一時代を支えた女優。幼い頃から芸能の道に進み、41歳という若さで亡くなるまでコンスタントに映画に出演している。松竹下加茂撮影所入所で、日活太秦撮影所を経て東宝京都撮影所に移籍、そもそもの初舞台が大阪だというので、ずっと大阪出身者だと思っていた。7、8年前だったかその花井蘭子が高崎に縁のある方だと知って驚いた。すごいと思っていた人が地元出身とわかっただけで、高崎市民であることが一段と誇らしく思えるから不思議だ。

 調べてみると、本名は清水よし子といい、父親が新派の役者清水林之輔。この父親が中紺屋町出身、かつて古着横町として栄えた一角だという。家業を継がず役者になり、職業柄転々と居を移す中で蘭子は大阪で生まれたそうだ。高崎に定住する事はなかったようだが父親共々故郷への想いは深かったという。親戚はもちろん高崎にいる訳で、ちょくちょく家族で帰って来ていたようだ。新編高崎市史 資料編10第3章にこんな記述がある。

 「高崎の生ンだ日活のスター花井蘭子がこの程帰郷して、郷土のファンに長唄「岸の柳」でお目見得挨拶をした。」(高崎市市史編纂委員会 1998)

 この時分で花井蘭子は17歳であったと記されている。残念ながらこのときどこでその会が催されたのかまで調べがつかなかったが、とにもかくにも本人が高崎出身である自覚を持ち、周囲もそれを誇りに思い、生涯を通じて故郷と繋がりがあった事は間違いないようである。

 さて、話を元に戻そう。『むかしの歌』は蘭子が21歳の時の作品で彼女の戦前の代表作であり傑作と言われている。大阪船問屋のいとはん・お澪を好演しているのだけれども、この中で唄うシーンが数度出て来る。特にラストシーンは鳥肌が立つ美しさだった。ふとそれが、故郷で長唄を披露した姿に勝手にオーバーラップしたのだ。違う時代を生きたはずの映画スターが、高崎のまち中で唄う姿を感じられるとは…。これぞ幸せな映画体験と言わずしてなんと言おうか。至福の時はこんな風に突然現れるのだった。

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。

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