映画のある風景

空っ風と保太郎

志尾 睦子

映画のある風景

 先月、初めて広島市を訪れた。区画整理された街並は、無言でここが一面焼け野原であった事を語っていた。これまでの人生の中で見聞きした映画や書物の力を借り、過去の記憶へと飛びながら、私は思慮深く広島の町を感じてくる事が出来た。

 いくつもの映画が頭の中を駆け巡るなかで、ひと際心に留めて来たのが『ひろしま』(1953年、関川秀雄監督)だった。この脚本を手がけたのは八木保太郎。高崎市が生んだ偉人の一人だ。数々の名作を世に放ち、日本映画のシナリオ道を牽引して来た名脚本家である。

 保太郎は明治36年、群馬県群馬郡京ヶ島(現萩原町)に生まれた。18歳で上京、映画畑に身を投じ助監督を経て脚本家の道を歩む。戦前は左翼思想の活動家として警察にマークされた事もあり、いくつかのペンネームを使い分けていたという。

 一躍保太郎の存在を世に知らしめたのが33歳で手がけた『人生劇場・青春篇』(1936年、内田吐夢監督)。野太いロマンチシズムの傑作と謳われた作品で、視覚的表現をシナリオに落とし込んだその手腕が高く評価された。翌年再び内田監督と組んだ『裸の町』では原作者の真船豊に「原作を越えた傑作」と言わしめ、『限りなき前進』では、脚本で初めて純文学雑誌「新潮」に掲載されるなど、その実力を確固たるものとしていった。戦中は一旦創作活動を停止するが、戦後も今井正監督と組んだ『山びこ学校』(1952年)、『米』(1957年)を始めとして数々の傑作を世に送り出した。67歳でシナリオ作家協会会長に就任、84歳で亡くなるまで創作意欲を欠く事はなかったという。

 「シナリオは足で書く」と明言した保太郎は、題材の調査や取材は徹底していたと言う。その根気強さを上州気質と捉える人も多かったようだ。『八木保太郎 人とシナリオ』(1989年 日本シナリオ作家協会発行)でもそうした気質に触れた記述が残る。中でも装幀をまかされた新藤兼人監督は、八木保太郎の生家を訪れた時の事をこう述懐していた。

 上州はかかあ天下と空っ風、で気風ははげしい。田をつくり、蚕をやり、一家総ぐるみの農作業に男も女もない。赤城おろしに身をさらした百姓たちに、頼みとするのは体一つ、腕一本であった。百姓八木保太郎は徴兵検査までこのような土地の泥田のなかにいたのだ。

 映画という土地を耕した偉人に対する尊敬と畏敬が、「シナリオは足で書く」という言葉に凝縮されていた。上州おそるべし、と身が引き締まる思いがしたのは言うまでもない。

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。

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