高崎新風土記「私の心の風景」

橋の風景から③ ―多胡橋―

吉永哲郎

高崎新風土記「私の心の風景」

徳川幕府は軍事上から、東海道をはじめとする重要街道の河川に、橋を架けることを禁じていました。多くは渡船と徒歩によって川を渡りました。川をはさんでの地域交流には、渡船場の権利や渡船料など難しい課題が多くあり、地域住民はながいこと不便な生活を強いられていました。

明治4年、明治新政府が地方の渡船場に仮橋を架けることを指示したことから、各地の河川に木橋・土橋・船橋などが次々に架けられるようになりました。しかしその費用は公費よりも民間出資が多かったようです。なお地域の人々が日常生活・経済交流のために、いかに橋を求めていたかは、よく橋のたもとなどに見かける、大きな橋建設記念碑などを通して、推察することができます。

県道高崎吉井線を高崎方面から中山峠を下りきりますと、鏑川に架かる多胡橋があります。現在は鉄筋コンクリートの橋ですが、それ以前は1918年(大正7)に架けられた木造つり橋とコンクリート桁橋の併合橋でした。二本の太いワイヤーロープの端が、崖(現在のコンビニの後ろにあった)に埋め込まれていました。 橋の下流は馬庭ぜきがあり、季節によってボート場や簗が設けられ、賑わいを見せていました。

近年姿を消した「多胡簗」は、密かに風流人が集まるところでした。この雰囲気を懐かしむ人、また吊橋を知る人は、年々少なくなってきました。

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