高崎アーカイブNo4 たかさきの街をつくってきた企業

上信電鉄株式会社(1895〜)

全国で二番目に古い私設鉄道

生糸の輸送手段として誕生した上野鉄道

電気機関車「デキ形」わが国で最も古い電気機関車として活躍してきた「デキ形」。通常運行は平成6年に70年の歴史に終止符を打った。現在はイベント列車として運行している。

 上信電鉄は、国内の私鉄の中で伊予鉄道についで二番目に早く開業しています。前身は上野鉄道で、明治30年(1897)9月に高崎―下仁田間が開通しました。

 この沿線には、江戸時代に中山道の脇往還の「姫街道」が走り、検問の厳しい中山道を避け、旅人や商人、物資の往来が盛んでした。明治5年(1872)の官営製糸場の操業により、さらに往来は賑やかさを増しました。

 こうしたなか、生糸の輸送に着目したのが、江戸時代から問屋として活躍していた埼玉県本庄町の諸井五左衛門で、富岡と東京を直結するために、明治6年に乗合馬車を開設しましたが、2年で廃業となりました。

 その後、明治8年(1875)の官営新町屑糸紡績所の新設に伴い、地元の有志が富岡―新町間に乗合馬車を走らせましたが失敗。さらに、明治14年に富岡―高崎間を結ぼうと、木道馬車の建設を計画しましたが、鏑川の架橋工事に多額の資金を費やし挫折。こうした失敗が礎となって、沿線有志の間に軽便鉄道建設の気運が高まり、明治28年(1895)に櫻井弥三郎・小澤武雄らが発起人となり、上野鉄道会社が建設されました。

軽便鉄道としてスタート

 上野鉄道は軌間の狭い軽便鉄道で、開業当時は蒸気機関車が二六人乗りの客車を牽引しました。多くは後部に貨車を連結した客貨混合列車で、山名・吉井・福島・一ノ宮・南蛇井の六駅に停車しながら、高崎―下仁田間33.7kmを、約2時間30分かけて走りました。沿線の森林資源に恵まれた上野鉄道では、蒸気機関車の燃料に薪炭を使用することもありました。肥料・雑穀のほか新聞や郵便、米、塩、魚などの日用品が高崎方面から運ばれ、上り列車では、生糸をはじめ、鉄鉱石、石炭、砥石、木炭、氷など沿線地域の産物が輸送されました。

 当時の列車の下等運賃は1マイル当たり一銭五厘。高崎―下仁田間は三二銭。富岡芸者の玉代が2時間で50銭だったと言われることから、現在に比べ、かなり高かったようです。

山田昌吉社長の下、レールの軌間拡張と電化へ

烏川橋梁の電化工事烏川橋梁の電化工事

 大正9年(1920)に、上野鉄道は県内各鉄道との業務提携を強め、顧客サービスを向上させようと「連帯運輸に関する願書」を国鉄省に提出し、翌年契約成立となりました。しかし、上野鉄道と国鉄の軌間が異なるため、貨車の相互乗り入れができず、多くの商品が輸送できなくなりました。この課題を解決しようとしたのが、社長に就任したばかりの山田昌吉で「国鉄への直通運転と、機関車のスピードアップ」の必要から、軌間拡張と電化を強く主張しました。

 大正2年(1913)、6万円の借金のため、東京の安田銀行に経営を委ねなければならない状況にあった上野鉄道に対し、茂木銀行高崎支店支配役だった山田は「地元の鉄道事業を、わずかな金額で中央資本に売り渡すべきでない」と主張、茂木銀行から6万円を融資して窮状を救いました。

 これを機に、山田は上野鉄道の監査役に迎えられ、経営に力を尽くすことになります。上野鉄道の窮地はなおも続き経営は逼迫しますが、のちに高崎商工会議所会頭、上州銀行副頭取などを兼任し、高崎実業界の重鎮として多くの業績を残した山田の辣腕によって、幾多の危機を乗り越えていきます。

上信電鉄と社名変更。増加する客貨

 大正10年(1921)、上州と信州を結ぶという構想から「上信電鉄株式会社」と社名を変更。大正13年(1924)、高崎水力電気㈱との合併契約不履行の代償として、東京電燈㈱室田発電所の土地と付属施設一切を譲り受け「電気鉄道」の第一歩を踏み出しました。

 大正13年(1924)に上信電鉄と高崎線のレールがつながれ、貨物の相互乗り入れが実現。さらに旅客の便宜を図るため、上信電鉄の停車場が高崎線駅構内に組み込まれました。客車と貨車が別運行になり、乗客定員は一両90人に増加。途中駅を一時間半ごとにきちんと発着し、快適性・利便性は一気に向上。乗客は増加し国内経済が落ち込んでいたにもかかわらず、客貨輸送は未曽有の活況を呈しました。

バス事業への取り組み

 大正12年(1923)の関東大震災以降、乗合バスが全国に普及し、群馬県下でも大小多数のバス会社が激しく競争するようになると、上信電鉄はその買収に乗り出し、路線も拡大させました。そして昭和17年(1942)に上州と信州を結ぶ待望の下仁田―中込間の直通運転がスタートしました。しかし、資材不足の影響で、切替器などにトラブルが目立ち、翌年には廃止となりました。

観光事業、さらに事業の多角化へ

 上信電鉄では、沿線の観光振興を積極的に展開しました。昭和4年(1929)には「山名水泳場」を開設。山名駅近くの鏑川をせき止め数百メートルのプールを作り、当時人気の映画俳優たちを呼ぶなど人気を博しました。

 また戦後、神津牧場・荒船高原一帯への旅客誘致が本格化し、昭和25年(1950)になると春と秋の日曜祝日には上野から下仁田までの直通の高原列車の乗り入れが始まるなど観光面での整備が進みました。

 また、高崎の実業家・井上保三郎による白衣大観音の建立をきっかけに、広く知られるようになった観音山で、昭和27年(1952)4月から一カ月にわたり『新日本高崎こども博覧会』が開催され、上信バスは来場者の足として活躍。このバス路線が縁となり、博覧会の跡地にできた児童遊園地「高崎フェアリーランド」の営業を引き継ぎました。

 昭和30年代後半、高度経済成長時代を迎え、上信電鉄はタクシー、バス、運輸、観光、ホテルなど事業の多角化、グループ化を進めていきます。

※参考資料:上信電鉄百年史

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