高崎アーカイブNo.6 たかさきの街をつくってきた企業

全国屈指の高崎炭田(明治初期〜戦時中)

富岡製糸場をはじめ製糸業の熱エネルギーを担う

観音山丘陵に点在した亜炭田

昭和10年代、トロッコを使って亜炭を運び出す様子昭和10年代、トロッコを使って亜炭を運び出す様子

 亜炭というのは、石炭に類似した燃料ですが、正式の鉱物学上の名称ではありません。日本では炭化の度合が低く発熱量の低いものを石炭と区別しています。

 高崎および周辺では、石炭といえばまず、亜炭鉱を思い浮かべるほど、戦前戦後を通して工業用、家庭用の燃料として亜炭が親しまれてきました。とりわけ第二次世界大戦後、学校の教室を暖めたストーブの温もりを思い出す人も少なくないでしょう。

 県内には各所に亜炭の埋蔵地域がありましたが、観音山丘陵に広がる高崎炭田は比較的良質な亜炭を産出していました。

 明治の初め、片岡郡乗附村(現高崎市乗附町)蛇場見の炭田で、乗附村の田島元七によって亜炭の採掘が行われたのが最初といわれています。この高崎の亜炭が、官営富岡製糸場で燃料として用いられ、脚光を浴びたことは、日本における近代工業の発達を考える上で重要です。

製糸場の燃料として注目された亜炭

 「明治10年上野国借区抗業明細表」をみると、片岡郡乗附村蛇場見の田島元七は1,200坪を借区(明治8年8月開業)、片岡郡寺尾村の佐藤友済ほか一名は同村に705坪を借区(明治9年5月開業)、寺尾村の野中源四郎は同村館に500坪を借区(明治9年5月開業)しています。

 明治5年(1872)に操業した官営富岡製糸場では、最初から蒸気機関の燃料として亜炭が使用されました。製糸賄方の韮塚直次郎の勧めにより、橋本万造が館の採掘にあたって、富岡製糸場に亜炭を納入しました。

 また、明治11年(1878)には新町屑糸紡績所で燃料として用いられました。石炭より安価で手近なところで豊富に入手できる利点から、洋式器機の操作に欠かせないものでした。

 こうして官営の製糸場や民営の製糸場、高崎の湯屋などが大口の需要者となり、亜炭業の発展はそうした業界の盛衰にかかっていました。日露戦争を境に亜炭業は発展の基盤を固めるに至りました。

 しかし一方、「明治29年 中村阿部知事交迭事務引継書」に、「…石炭(主ニ褐炭ニシテ、石炭ハ二三ヶ所ニ於テ採掘スルニ止ル)は碓氷郡ノ東端片岡郡ノ西南部、緑埜郡ノ西北部及多野郡北部ノ各所ヨリ産出スルトイエドモ其質良好ナラズ産額モ多カラズ、唯県下各製造所ノ需要二応スルノミ」と記されたように、亜炭の評価は高いものではありませんでした。

全国上位の産出量を誇った高崎炭田

 昭和7年(1932)、商工省鉱山局が行った調査によると、わが国における主な亜炭鉱21ヶ所、埋蔵量の合計は4億7,300万トンで、その後新炭田の発見や採掘可能な深層探査の結果、昭和15年(1940)には7億6,000万トンの推定鉱量が報告されました。昭和7年に調査したときの主要21炭田のうち、高崎炭田は全国第9位で、埋蔵量は1,090万トンに達し、亜炭産出県としては、全国で常に四〜五位に位置していました。

 高崎の亜炭業は石炭産出地から遠距離にあったこと、亜炭の需要を地場に持っていたことから、比較的安定した経営が維持できました。

個人や農閑期を利用し採掘する人たちも

 亜炭は地下浅く、地表に露出することもあり、深くても数10尺が普通であることから、深いところから出る石炭よりも後の時代、40〜50万年前の樹木が埋没してできたものだと考えられます。

 採掘法は、亜炭層が露出している箇所を簡単な道具をもって採掘する原始的な方法で、露天掘りができなくなると、穴を掘って進む「タヌキ掘り」式の採掘法がとられました。通常は斜坑で幅の狭い炭層を追い採掘し、狭い坑道なので個人で採掘する者も多くいました。坑道が次第に深くなると素掘りでは危険が伴うので支柱を建てるようになり、次第に採掘の規模が大きくなりました。坑口には化粧枠を付け、崩壊を防ぐために賢固な支柱を入れ、矢木や矢板を使用し合掌を組むようになりました。

 亜炭は石炭のように硬くないうえ、切削機やダイナマイトを使う例も少なく、坑内に爆発性のガスが出ません。さらに吸水性なので炭じんを生じずに高い作業効率があり、個人での採掘や農閑期を利用した採掘なども行われました。

エネルギー革命で役割を終えた亜炭

 戦後、高崎炭田における炭鉱数は一八鉱山、炭鉱の位置は、高崎市の西南部から西部に及ぶ一帯です。昭和27年2月現在の調査では、乗附地区で太平、実冠、田村、興亜、城山の五炭鉱、寺尾地区で金井、青木、昭和、赤岩、長坂の五炭鉱、碓氷郡八幡地区で高崎、田島の二炭鉱が稼働しており、乗附地区の月産は2,320トンで従業員165名でした。なかでも興亜炭鉱の出炭量は、高崎炭田の約4割を占めました。

 やがて、技術革新や産業構造の高度化の中で、伝統工業・在来産業の衰退がみられ、高崎亜炭鉱の閉山が相次ぎ、すべての亜炭鉱が終焉を迎えました。

 高度経済成長による膨大な原料需要に国内鉱山は量的にもコストの面からも応じられず、燃料効果から石炭や亜炭が見放され、石油へと転換していきました。

※参考資料 『群馬産業遺産の諸相』(「高崎亜炭鉱業の歴史と産業遺産」/高階勇輔)高崎経済大学附属産業研究所[編] 日本経済評論社[出版]、高崎市史(通史編4)

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