高崎アーカイブNo.8 たかさきの街をつくってきた企業

高崎電気館(1913〜2001)

百年前に開館し、高崎の映画史を綴った電気館

高崎初の映画専門館

 高崎で明治30年代の初めごろから上映されるようになった映画は、安くて手軽な娯楽として、たちまち大衆に受け入れられ、大正期に入ると、専門館がつぎつぎに開業しました。

 大正2年(1913)1月1日、広瀬保治が柳川町に開業した木造モルタル塗り二階建ての「電気館」が、高崎の常設映画館の始まりです。電気館という名称も興味を引き、連日立ち見がでるほどの盛況だったといいます。

弁士が活躍した活動写真

大正9年開業の高崎劇場大正9年開業の高崎劇場

 大正9年(1920)には新紺屋町に高崎劇場(昭和13年に東宝映画会社に改称)が開館し、芝居と映画の興業が行われました。翌年連雀町に富士館が開館しましたが、徐々に経営不振になり、野中興業に貸して帝国館と改称しました。また、明治13年(1880)に芝居小屋として田町に建てられた藤守座が、新紺屋町に移って世界館と改称し、映画を上映するようになりました。(大正7年に第二大和館となる。後のオリオン座)。

 この頃の映画は、映像と文字が交互に映し出される無声映画で、映画と言わず活動写真と呼ばれました。舞台の横には弁士がいて、独特の調子で語り、三味線、バイオリン、クラリネットなどの楽士が演奏しました。映画館の一階は木の長椅子が並べられた土間で、二階は座敷になっていました。休憩時間になると「おせんにキャラメル」と中売りが来て、映画館の中は香ばしい香りと甘い匂いが立ち込めました。

花街柳川町のシンボル

 電気館の近くで育った長谷川忠が著作『柳川町花街物語』の中で、次のように記しています。

 「モダンな建物の日活電気館は、五軒先であった。毎日多くの映画愛好者の人達で家の前の通りは賑わいがあった。電気館の真前が銭湯の柳湯であり、内風呂のない町内の人々が利用した風呂屋で憩いの場でもあった。なんといっても、この電気館の存在そのものが、柳川町花街の中のシンボル的な建物であり、多くの人々を呼び寄せる場所となっていた。」

 「正面の舞台の右横手に弁士用のテーブルと椅子が出ており、白扇を持った髭の生えた弁士の姿があった。お囃子連の演奏する箱型が作ってあり、三味線、小太鼓はじめとしての演奏隊が控えていた。大河内伝次郎の立回りの場面で"剣劇の響き"のリズムが、今も耳底に残っている。」

 「電気館が資本金十万円で株式会社になったのが、大正6年(1917)のことで、私の家も百株券(額面1万円)の株主になっていた」といいます。

時代劇が主流だった昭和初期。電気館が焼失し再建される

昭和4年に新築された電気館昭和4年に新築された電気館

 昭和2年(1927)に日本初のトーキー映画『黎明』が制作されましたが、高崎の映画館では無声映画とトーキー映画が一緒に上映されました。

 昭和初期の日本の映画は時代劇が主流で、大河内伝次郎、阪東妻三郎、嵐勘寿郎、長谷川一夫、片岡千恵蔵といったスターが銀幕の中で大活躍していました。子どもたちは立川文庫の人気者、猿飛佐助や霧隠才蔵、鞍馬天狗が登場するチャンバラ映画に夢中でした。

 昭和4年(1929)8月に、電気館は火災により焼失しましたが、すぐに新築に着手し、12月には鉄筋コンクリート造3階建のモダンな新館が完成しました。照明その他の設備も完備し、土足のまま入場できるなど好評でした。

 12月27日から3日間、新築祝いを兼ねて映画招待会が行われ、「神宮式年歳」「浮名ざんげ」「金四郎半生記」が上映されました。

敗戦後映画館に殺到した市民たち

 敗戦直後の荒廃の中で、映画は市民の最大の娯楽でした。終戦の一週間後には、電気館が「東海水滸伝」を1円10銭で上映を始め、新紺屋町の東宝(元高崎劇場)と松竹(元第二大和館)も営業を開始。連雀町の帝国館は高崎第一劇場と改称し営業を始め、外国映画専門封切館となりました。

 終戦直後、アメリカ軍の指導下で発行された高崎市民新聞の活動を描いた16ミリ映画『高崎での話』が全国上映されました。高崎では電気館で上映され、市民の列ができました。

 昭和21年(1946)、敗戦後初めての正月を迎えた市民は市内の映画館に殺到し、戦前の作品『愛染かつら』を再上映した松竹は1月2日の入場者が8,120人。同じく『東京五人男』の東宝は1月3日に7,870と超満員の大盛況で、各館とも三が日を過ぎても、平日の入場者が千人を超えたと、当時の上毛新聞が伝えています。6月に新装開業した銀星座が最初に上映したのは、ジョン・ウェインの西部劇『拳銃の町』で、ボガードとバーグマンの『カサブランカ』も登場しました。

歌謡ショーなども開催。時代の役割を終えて

 昭和29年(1954)、荒廃した人心も一息ついたころ、♪死んだはずだよお富さん 生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん♪という歌謡曲「お富さん」が世間を沸かせました。作詞をしたのは、柳川町に住む山崎正(本名:松浦正典)。山崎は復員して電気館の側に幌馬車書房を開き、多くの民謡、歌謡曲を生みました。昭和29年には、春日八郎が「お富さん」を披露した歌謡ショーが、電気館で開催されました。

 その後テレビやビデオの普及と共に、映画の斜陽化が進行する中で、電気館は経営の立て直しを図ってきましたが、経営者の広瀬正和氏が病に倒れると、平成13年(2001)1月に閉館となりました。来年、平成25年(2013)は電気館の開館から100年を数えます。

※参考資料 高崎市史(通史4)、『柳川町花街物語』長谷川忠著作、『五十年後の高崎映画界』中村紫郎著作
※写真二点 上毛時事写真帳より(高崎電気館所蔵)

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