高崎アーカイブNo.10 たかさきの街をつくってきた企業

すき焼きの信田(明治20年代〜平成20年頃)

歩兵十五連隊の将校御用達の店

昔のままのたたずまいを残す店舗

閉店した現在の信田閉店した現在の信田

 「柳川町の裏路地」と名付けられた風情ある通りを抜けると、まるで時代劇のセットのような古い木造の建物があります。ここは、昔の高崎の人なら「すき焼き」といえば、すぐに思い浮かべた「信田(のぶた)」という料理店です。今では想像もつかない切り子細工のような玄関の硝子戸。手描きの名品がそろった徳利や杯、皿や器類が残り、一世を風靡していたことがうかがえます。玄関ホールから続く廊下や階段、柱や床は、歴史によって磨き上げられ、懐かしいたたずまいが今となっては珍しく新鮮です。

 昭和の頃の常連さんの一人は「美味しいのが一番ですが、明治・大正の郭の雰囲気を残す店舗が味わい深くてよく通いました」といいます。平成20年頃まで予約を受けて営業が続けられていましたが、今は残念ながら閉店となっています。

 「牛鍋」か「すき焼き」かという議論も一部にありますが、牛肉の質があまりよくなかった当初は厚めの肉を使った「牛鍋」で、次第に薄くスライスした肉を使った「すき焼き」になったようです。

文明開化と自由民権の気運がもたらした変化

 文明開化は高崎人の日常生活にも大きな変化をもたらしました。馬や牛を食べることもその一つ。これらの家畜は四ッ足といって、これを食べると子孫にたたるという信仰の上からもこれを嫌い、一般家庭では食べることはありませんでした。それが慶応3年(1867)頃、東京の中川嘉兵衛が『御養生の肉中川』という看板を出して牛鍋を始めました。これが日本で最初と言われています。

 こうした西洋文化の輸入に加えて自由民権が叫ばれるようになると、料理店の出店も自由になり牛鍋が群馬県内にも入ってきました。前橋で牛鍋屋ができたのをはじめ、高崎でも鞘町に羽生田久太郎という人が赤城亭支店を出店しました。

高崎における精肉店や肉料理店の出現

 明治15年(1882)に高崎の嘉多町に境仲次郎の「いろは」、鞘町に長谷川肉店という肉屋もできました。また、明治28年(1895)には豊岡出身の稲川という人が成田山境内で相撲興行をしたときに、柳川町の鍋屋で牛鍋をつついた記録があります。この鍋屋は嘉多町通りの今の信田のところにあり、信田はその東隣にありました。鍋屋が柳川町に越した後、信田がそこに移りました。

 明治33年(1900)の統計によると、高崎の料理店は80軒、飲食店は146軒もあり、相当隆盛を極めたようです。この頃の里ことばに『貴賓には鍋屋の西洋料理、一般には清香庵のうなぎ』というのがあり、その頃西洋料理はまだ珍しかったようです。

近代思想家たちも好んだ牛肉料理

明治43年12月発行の『高崎案内』に掲載された信田の広告 明治43年12月発行の『高崎案内』に掲載された信田の広告 

 明治41年(1908)五月、初期社会主義雑誌として知られる『東北評論』が、高崎市柳川町一二番地を発行所として刊行され、高崎は新思想の発信地の一つとなりました。編集・発行の中心となった高畠素之は、後にマルクス『資本論』の戦前におけるただ一人の完訳者として、日本近代思想史上著名な人物でした。その高畠は発行所で同志2名と共同生活を送っていましたが、当時の生活を表わしたものの中に、「牛豚肉買いにと信田、鍋屋、赤城亭肉店などに出かけたりもした」という一節があります。

 昭和4年(1929)に出版された『高崎』によると、当時の料理屋は営業収益税と所得税という二つの税金を支払っていました。信田(信田藤蔵)は営業収益税182円・所得税315円58銭、同業者の鍋屋(倉品重次郎)は営業収益税252円・所得税467円80銭と、料理屋の中ではトップクラスの納税者でした。

歩兵十五連隊の創設。軍都高崎で将校たちも好んで食す

 明治16年(1883)、歩兵十五連隊が置かれると、高崎は軍都の様相を濃くしていき、明治23年(1890)の兵士数は将校を除いて1,449人を数えました。軍人の流入が東京や横浜の新しい文明を連れ、牛肉料理の人気に拍車をかけたとも考えられます。実際、血気盛んな若い将校たちが、好んで利用したのが信田でした。今でいう居酒屋感覚で、飲んで騒いでという雰囲気でした。

皇居二重橋の橋げたと同ブランド。信田の鍋にまつわる話

明治33年7月に発行された小島鐵工所の商品パンフレットに掲載された鍋。信田の鍋はこれを使用明治33年7月に発行された小島鐵工所の商品パンフレットに掲載された鍋。信田の鍋はこれを使用

 信田の鍋は、市内の小島鐵工所が製作元です。江戸時代の文化6年(1809)に鋳造業として歌川町で創業し、明治17年(1884)には皇居二重橋の橋げたとガス塔を鋳造、納入。また、戦時中は同社が納めたプレス機で戦艦大和と武蔵の主砲が作られ、現代においては東京スカイツリーも同社のプレス機なくして語ることができないというほどの企業です。

 その小島鐵工所が明治33年(1900)に印刷した『銅鐡鋳造明覧』という商品カタログに掲載された真鍮製の"煎鍋"が、信田の鍋です。熱伝導率が高く、殺菌作用があり衛生的なうえ耐久性に優れ、昭和初期に小島鐵工所の社長を務めた井上保三郎氏が、信田の女将に「この鍋はもう会社に一つもないので、ぜひ買い戻したい」と申し出たところ、「これはうちの宝だから」と断られたといいます。

 また、鍋に関する面白い話があります。昭和16年(1941)米英などの連合国との戦争が始まると、市民は金属の回収運動に協力するようになり、ネオン用鉄塔、大信寺の駿河大納言供養の鐘をはじめとする一五寺の梵鐘、観音山名物の乃木大将、初代矢島八郎等の銅像などが次々に供出され武器に変わっていったなか、"信田の鍋"は供出を免れました。それは、おいしいすき焼きが食べられなくなると困る将校たちの計らいにほかなりません。

※参考資料『高崎郷土花街史』根岸省三著、『高崎市史通史編』

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