100.高崎新風土記「私の心の風景」

万葉東歌の虹の歌

吉永哲郎

 夕立が上がった空に大きく弧を描いた虹の光景は、大自然の創造主に「なんと美しく、夢を感じさせてくれるのか」と、手を合わせてしまいます。
 しかし、万葉の人は現代人と同様な思いで虹を眺めてはいなかったようです。虹を歌に詠み込むようになったのは、平安時代末のこと。それまでの文献(古事記・日本書紀など)には、虹は太陽の光によって孕むという貴人誕生神話のように、天と地が男女が契るようにして生まれたのが虹で、汚れが多く不吉な予兆として捉えています。さらに蛇と結びつけて考えてもいます。これは外来文化(中国・朝鮮半島の古文献)の影響といわれています。
 さて、虹の歌は万葉東歌「伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹〈のじ〉のあらはろまでもさ寝をさ寝てば」(やさかの大きな堰堤に立つ虹のように、人目につくほどあなたと共寝さえできれば、なにも悔いることはない)の一首しかありません。「ゐで」は高崎市井出の三ツ寺遺跡から発見された先進技術を駆使して建てられた「王の館」の関連施設。近くに渡来人系豪族の古墳もありますので、この地の人々は外来文化に早く接していたと思われます。
 この一首には、不吉な予兆をする虹を踏まえ、悲壮な思いで恋の成就を「虹」に祈る、東国人の若者のこころを感じます。保渡田古墳群を散策していますと、この若者の姿を見かけることがあります。

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