髙崎唱歌

散歩風景39

吉永哲郎

 今回は38番「弓町真町羅漢町 五百羅漢を安置せる 天台宗の法輪寺 前に連なる北通り」です。

 江戸時代、「弓町真町羅漢町」は藩の組屋敷(足軽や与力組、同心組など組に属する下級武士が居住していた屋敷地)のあったところです。「真町」は「新町(現・あら町)」と混同するので「真」の文字を使いました。
 「羅漢町」は法輪寺本堂に木像の「五百羅漢」が欄間に安置してあるゆかりからの町名です。法輪寺は三夜様で知られ、縁日の23日の夜祭は賑わったと言われています。

 門前の道は昭和になって八間道路が開通し広くなっていますが、元は道路が狭いところでした。法輪寺には江戸末期に活躍した絵師一椿斎芳輝の描いた「間引き図」の掛け軸があります。「間引き」は堕胎のことですが、民衆の悲しい人生を物語る絵です。
 法輪寺の墓地は江木町にあります。墓地の近くに、明治期には高崎の火葬場があって、市内から寺の前を通り火葬場まで、幟旗を先頭にした葬列がゆく風景がありました。現代からは想像ができない風景です。

 江戸末期の川野辺寛の『高崎志』に、「弓町ノ北ニ鉦打(かねうち)町アリ」との記事があります。鉦打町は現在はありませんが、大雲寺(箕輪城高崎移転に伴い移築。墓地に山本勘助子孫の墓がある)前の南へ法輪寺境内へと細い道があります。この道は旧中山道の古道です。この道の一部を「カネウチ通り」といっていました。また西田美英の『高崎寿奈子』には、現浜川町の来迎寺と関係があると記されています。

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