高崎アーカイブ Series2 No.28

高崎勢が甲子園初出場

昭和7年(1932)8月15日


高中と高商の活躍を市民が応援

優勝校の中京商と対戦
 昭和7年の全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園・全国高校野球選手権大会)に北関東大会を勝ち抜いて初出場した高崎商業学校は、一回戦を不戦勝で進み、8月15日、二連覇を狙う愛知の強豪・中京商と対戦した。両校無得点のまま迎えた6回裏、中京商の攻撃、レフトへフライが飛んだ。
 中学野球の人気が高まり、甲子園球場のスタンドは白いシャツを着た観客で埋め尽くされ、雪のように真っ白に見えることから「アルプススタンド」と呼ばれるようになったそうだが、その真っ白なスタンドが、レフトを守っていた松島健寿の視界からボールの行方を奪った。打球は松島の頭上を越え、その回に奪われた5点を取り戻すことができず、5対0で高崎商は敗れた。中京商は、決勝に勝ち進み、春夏連覇を狙う景浦将の松山商を延長戦でくだし、2連覇を達成。中京商の吉田正男投手は翌年も優勝し3連覇を果たした。
 宿舎に帰った松島は、その夜、ふとんに入っても涙が止まらなかったという。高崎に戻ってからもつらい思いをしたと、甲子園での試合を貴重な手記に残している。

群馬県勢の予選初出場は前橋中
 群馬県勢が甲子園の予選に初出場したのは、大正9年の第6回大会だった。まだ参加校が少ない時代で、予選の関東大会は、茨城県、栃木県、群馬県の3県11校により茨城県竜ケ崎中学の校庭で行われた。群馬県勢は前橋中学1校だけだった。前中は決勝まで進んだが、竜ケ崎中に敗れ、甲子園出場を逃した。甲子園の本大会は地方予選を勝ち上がった14校で戦われた。第7回から本県勢では太田中学も参加した。
 甲子園の予選となる関東大会は、大正15年の第12回大会から北関東大会となり、参加県の枠組みを変えながら昭和52年の第59回大会まで続き、甲子園をめざす群馬県球児の最後の関門となっていた。

大正10年に高商野球部が創部
 明治41年に高崎市立商業補習学校が宮元町に開校し、大正6年に台町に移転、翌7年に高崎商業学校となった。野球部は大正10年に創部し、後に高商校長、高崎市長となる沼賀健二はこの年の入学で、創部したての野球部に甲子園をめざして入部した。高商のグラウンドの一塁側にバラ垣があって、飛球を追っていくと傷だらけになった。富岡中との試合は、山越えで歩いて遠征し、敷島球場で大会がある時は、全校生徒がやはり徒歩で応援に行ったという。

大正11年に高中野球部が復活
 高中では既に明治時代から野球部があった。明治31年4月に群馬県尋常中学校群馬分校(高崎中学・高崎高校)が上和田町に開校すると、撃剣部(剣術)とベースボール部ができた。野球の練習は袴をまくり上げ、はだしの生徒もおり、市民が珍しがって見物したという。これが高崎の野球の始まりとされている。
 高中と前中の野球部の試合は両校の名誉をかけ、応援も白熱した。高中野球部は明治43年頃に活動を休止する。部員が練習や試合と理由をつけて授業をさぼったり、前中とのライバル心が過熱したことが理由にあるようだ。群馬県下では、日露戦争を理由に運動部の対外試合が禁止された。真の理由は過熱した応援にあったようで、大正7年に解禁された時に、応援に対する規制が設けられた。
 消滅していた高中野球部は再興に時間を要したが、大正11年に学生野球の父と呼ばれる早稲田大学監督の飛田穂洲を招いて強化し、他校に後れをとったものの、飛田の心技両面の指導で急速に力をつけた。

県下で無敵を誇った高中
 復活した高中野球部は快進撃し、大正14年から秋の県下大会で連覇を遂げ、県下で無敵を誇ったが、甲子園だけはどうしても手が届かなかった。大正14年、15年の2年連続で前中が甲子園出場を果たし、群馬県勢の甲子園一番乗りとなった。
昭和2年夏、高中は鉄壁の強さとうたわれた。「今年こそ」と凄まじい意気込みで第13回大会予選の北関東大会に臨み、下馬評通り、1回戦から準決勝まで全て完封試合のすさまじい勢いで決勝へ進んだ。
決勝の対戦校は、これまで5勝1分で負けたことがない桐生中。高中の甲子園出場に王手がかかった。しかし桐中にも勢いがあった。両校激しい攻防を繰り広げ1対1で延長となった。11回裏、桐中の攻撃、2死2塁から右中間タイムリーを打たれ、高中は劇的な敗北を喫し、甲子園を逃した。この勝利が桐中黄金期の始まりとなった。

語り継がれるレガースのエピソード
 昭和5年、今度は高商が北関東大会決勝で桐中と対戦した。一塁側高商応援団は、ムシロ旗を立てて応援したそうだが、追撃届かず5対3で敗れた。
 参加校が多くなり、昭和6年から群馬県大会が行われ、その上位校が北関東大会に出場することになった。
 昭和7年、群馬県大会決勝で高中、高商が対戦した。技の高中、力の高商と評され、高商優勢とも言われた。試合は高中が打撃で高商を圧倒し11対6で高中が県大会を制した。
 試合中に高商の根岸捕手のレガース(すね当て)が壊れ、高中の金森主将が自軍のレガースを高商ベンチに持っていき、観客から大きな拍手が起こった。両校の捕手は、同じレガースを試合終了まで使い、県球史に残るエピソードとなっている。
 8月4日、宇都宮球場で行われた北関東大会決勝で、再び高中と高商の高崎勢同士が激突した。息づまる大接戦で、1対1で迎えた6回に高中が1点をリードしたが、高商は7回に2点を入れて逆転、8回にも1点を加え4対2で高商が勝利、甲子園初出場を果たした。
 高中は、その後も北関東大会の決勝まで進むが、最後の勝利をつかむことができず「悲運の名門」と称された。高商は、昭和12年、13年、15年に夏の甲子園に出場、13年は準決勝に進み、成田山前の理容店のラジオや新聞販売店の速報板に大勢の市民が集まり、電車もバスも動けなかったと新聞に報じられた。
 高中が上和田町(現一中)に、高商が台町(現警察署・合同庁舎)の目と鼻の先にあった時代で、放課後になると校庭の周りには市民が集まり、野球部員の練習に声援をおくっていたという。

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