高崎アーカイブ Series2 No.30

乗附に飛行場

昭和8年(1933)11月27日

航空都市・国防拠点をめざした計画
2機の高崎号が大空を舞う


交通の要衝に空路を
 商業都市から商工業都市への発展をめざし、高崎では大正時代から工場の創設、誘致を進め、昭和に入るとその気運は更に高まった。また高崎15連隊が置かれた高崎は、軍都として繁栄しており、高崎商工会議所にとっても軍需と商工業振興は重要な課題であった。
 鉄道と街道、つまり陸路の要衝となっていた高崎に飛行場を建設し、定期航空路を誘致しようという要望が昭和7年1月の高崎商工会議所議員総会で議決された。この頃の飛行機は複葉機で時速は200km超、輸送力は格段に違うが現在で言えば新幹線で、高崎・東京間を1時間で結ぶことができる。

地方拠点都市に空輸施設の動き
 第一次大戦(1914)により飛行機の重要性が軍部にあらためて認識されていた。日本は、航空分野で欧米に大きな後れをとり、国策として国産機の生産に本腰が入る。中島知久平が太田に飛行機研究所を設立するのもこの頃である。
 大正8年に国内初の飛行郵便が試行され、都市間の定期航路や遊覧飛行も始まった。昭和に入ると貨物輸送、旅客輸送も本格化し始め、料金は高額だが一般を対象とした遊覧飛行も宣伝された。
 首都圏や大阪圏などの大都市で空輸施設の建設が進められ、その動きは徐々に地方の拠点都市へと広がり始めた。こうした情勢に、いち早く反応するのが高崎人の真骨頂で、慧眼は輝き「高崎の発展には飛行場が必要だ」と産業界は考えた。
 飛行機といっても、現代のような大型機ではなく、この時代はまだ複葉機で、搭乗できる人数も少なかった。滑走路も短く、飛行場の施設規模も現代に比べて格段に小さくて済んだので、実現の可能性は大きかった。軍用に加え、民生用の需要を増やすことも日本の航空産業の育成に必要だったので、高崎産業界の着眼点は時代をとらえたものだった。
 遊覧飛行など、観光に生かすことも視野に入っていたが、むしろ高崎の狙いは大きく、航空産業の誘致と航空防衛の拠点として高崎を発展させることにあったようだ。全国に例を見ない計画がスタートした。

高崎航空普及会が発足
 高崎商工会議所は、昭和8年4月に飛行場設置調査委員会を設置して山田徳蔵を委員長にさっそく調査研究にとりかかった。なお山田徳蔵は田町の呉服商で大正8年から洞窟観音の事業に着手している。
 調査委員会は、国防と産業振興、飛行場建設、パイロット養成を視野に入れて「航空普及会」を組織することにし、軍部に対し、飛行機払下げを申し入れた。山田委員長と高崎商工会議所議員24人で6月に中島飛行機太田工場を視察、7月に高崎航空普及会が発足し、会長に土谷全次高崎市長、副会長に山田徳蔵が就いた。普及会を中心に、高崎商工会議所は資金集めに奔走した。
 飛行場は、乗附町の練兵場の一部を陸軍から借り受けて造成し、上田善吉飛行士が高崎専属のパイロットになり、飛行機の格納庫も建設することになった。
 普及会お抱えのパイロットになった上田飛行士について詳しいことは、今となっては全くわからないのだが、なんと自らも飛行機を所有していた。この時代に飛行機を操縦できる人は相当な逸材であり、高崎人の力の入れようが伝わってくる。

大成功した試験飛行
 普及会が手に入れた飛行機「高崎号」はサルムソン式2A型と呼ばれる複葉機で、陸軍がフランスから技術導入し、日本国内初の量産機となった。普及会に関する資料には230馬力と記載してあるが、最高時速230kmの誤りであるかもしれない。
 昭和8年11月14日、試験飛行にこぎつけた。
 上田飛行士の操縦する高崎号は、普及会の山田徳蔵副会長を乗せ、午前7時45分に立川飛行場を出発した。今か、今かと、乗附練兵場に集まった大勢の観衆が空を見上げている。はるか東の空からエンジン音が聞こえ、その音が徐々に大きくなる。8時30分、高崎号の勇姿が現れた。高崎号は、市街地上空を何度か旋回し、「高崎号初飛行」のビラ5万枚を散布した後、練兵場の上を低空飛行して観衆を盛り上げた。「万歳、万歳」の連呼が響く中、着陸した。
 機上の山田副会長と上田飛行士は祝杯を上げ、山田副会長は「壮快、壮快」と絶叫の声を上げた。この日は陸軍将校を乗せた凱旋飛行などが行われ、高崎線を走る汽車に向かってビラ1万枚を投下すると、見事に車窓から車内に入って搭乗者は大喜びしたという。

盛大に高崎号の命名式
 試験飛行の4日後には上田飛行士が所有する三菱式R22型機が浜松から箱根を超えて高崎に到着した。翌日19日、20日は5回目を迎えた高崎恵比寿講で宣伝飛行が終日行われ、また相馬ケ原の陸軍演習にも参加し、爆弾投下の実演を行った。飛行機は市民の大きな話題になっていた。
 11月27日に高崎号の命名式が乗附練兵場の飛行場で行われ、知事や市議会議員、会議所議員など200人の来賓と数千人の観衆が集まった。普及会に払い下げられたサルムソン式2A型機が「第一高崎号」、上田飛行士の三菱式R22型機が「第二高崎号」と命名された。
 高崎商工会議所の山田昌吉会頭は式典の祝辞で「地方都市にして飛行機、飛行場を有するものは全国に例を聞かない。高崎は将来、航空都市として産業交通、国防の枢要な地位をしめる」と述べるとともに、商工会議所会報に「明日の交通機関の主力となる航空事業は、新時代産業の寵児となり、高崎で起業計画されたことは大きな喜びだ」と記している。

高崎号のその後は
 昭和10年に群馬県を襲った大水害では、高崎号が利根川、烏川、碓氷川、吾妻川流域の被害状況を調査するとともに、救援活動も行った。恵比寿講では、「高崎号」を埼玉や栃木へ飛ばし、空から宣伝を行った。昭和11年11月に城南球場が完成し、高崎号から白球が落とされて、久保田宗太郎市長が始球式を行った。高崎号の記述は、これを最後に市史資料から消える。昭和12年に日中戦争が始まり、高崎でも戦時色が深まっていく。

高崎の都市力 最新記事

  • 株式会社環境浄化研究所
  • シネマテークたかさき
  • ラジオ高崎
  • 高崎市
  • 広告掲載募集中