68.高崎新風土記「私の心の風景」

源氏物語が通った道

吉永哲郎

 今から凡そ五百四十年まえの室町時代末、京都を中心に応仁の乱が起こり、約十一年間に及ぶ戦乱で、京都の街中はほとんど焼かれてしまいました。乱を避けて公家や文人たちは都を離れ地方に下った人も多くいました。こうしたことをきっかけとして、京文化が地方に広がっていきました。特に東国の武将たちは、その権威を誇る意味で、都の雅の文化を学ぶことに懸命になり、連歌を、そのための教養としての、古今集・伊勢物語を求め、さらには源氏物語を求めました。
こうした全国の武将の求めに応じて、ある時には古典講義をする連歌師を派遣したり、源氏物語の写本を多く作製させたのが、歌人で古典学者の三條西実隆です。実隆は連歌師飯尾宗祇から古典を学び、宗祇最大の理解者でもありました。歌日記『再昌草』には、宗祇が狂歌に「都より商人(あきびと)宗祇下りけり言の葉召せと言はぬばかりに」と詠まれていたことを記しています。
 「商人宗祇」とは、古典を持ち運び、流通する商品として価値を見出した最初の人宗祇のこと、「言の葉召せ」は「古典の作品はいかが」と問いかけること。表題の「源氏物語が通った道」とは、実隆の書写本を、宗祇が運んだ道という意味です。宗長の『宗祇終焉記』に、高崎の浜川に宿した八十一歳の病身の宗祇を記しています。そして箱根への最後の旅へ出立するのですが、その道筋はわかりません。私は勝手に豊岡の宋伝寺近くの土手から対岸の乗附緑地へ通じる碓氷川に架かる仮橋の風景に、弟子にたすけられ歩く宗祇の後ろ姿を重ね、しばし見送り佇みます。

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