髙崎唱歌

散歩風景 28

吉永哲郎

唱歌の29番は、「九蔵町すぎ田町とて ここぞ名高き上州絹 五十の市の売買は 数万の高に上るとか」です。
「田町」は、高崎が商都といわれる原点の町。高崎を背負う町として江戸時代からいわれてきました。残念なことに度々の火災により資料を消失し、具体的な街の繁栄ぶりを示す事例がはっきりしません。
田町の絹市場は元禄3年(1690)にできたといわれています。絹市場の跡は群銀田町支店と北田町信号の間にあった珍竹林画廊と高井京染店との間の細い露地奥にありましたが、今は往時の面影はありません。
毎月の五日と十日に絹市場が開かれ、近在の農家の人が、副業として織られた生絹を、朝持参して仲買人に委託しました。取引が終了するまでかなり時間がかかるので、農家の人は町に買い物に出かけました。町は縁日のような人出になり賑やかだったと伝えられています。この近在から運ばれた絹は「高崎絹」といわれ、裏地として珍重されました。
明治30年代(19世紀末)の田町通りには、呉服商が14件、下駄商5件をはじめ、鮮魚乾物商、タバコ商など商店があり、洋品屋、ランプガラス店、石油砂糖、自転車など新時代の商店も姿を見せはじめるほど賑わった街が田町で、商都高崎の原点といわれるゆえんです。
「お江戸見たけりゃ高崎田町紺の暖簾がひーらひら」と、近世末の里うたとして人々が口にしていたのが、いつの間にか商都を象徴する文言として伝わっています。現在の田町通り。往時の賑わいの面影を求めて、是非散策を...。

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