高崎アーカイブ Series2 No.25

関東大震災

大正12年(1923)9月1日

首都の避難民8万2千人を救護

関東大震災でバックアップ機能を発揮
 大正12年(1923)9月2日午後5時ごろ、じゅばん一枚をまとう裸足姿の5、6人が高崎駅に降り立った。前日の関東大震災で東京から高崎に逃れてきた最初の避難民の姿だった。その夜、避難民を満載の列車が高崎駅に到着し、膨大な数の避難者が押し寄せてきた。あくる日も、またその次の日も満員の列車からススと泥で汚れた膨大な避難民が高崎駅に降り立った。
 近代の首都圏を襲った唯一の巨大地震、大正12年9月1日の関東大震災で、高崎は日本の災害史に残る救護活動を行っていた。その様子を高崎商工会議所会報「実業之高崎」大正12年9月号が克明に伝えた。

高崎の被害は「不幸中の幸い」
 9月1日正午2分前、相模湾を震源域とする推定マグネチュード7・9の巨大地震が発生した。南関東から東海に及ぶ地域に広範な被害が発生し、死者10万人、全潰全焼流出家屋約30万戸に上り、電気、水道、道路、鉄道などライフラインにも甚大な被害を受けた。
 高崎も激しい揺れにみまわれ、断続的に約10分間にわたったと記録されている。土蔵の散壊が100カ所以上、高崎板紙の大煙突2本が中央から折れるなど被害があったが、幸いに全壊はなく、人的被害は軽傷者一人で、高崎市は「不幸中の幸い」と記録した。

東京が燃えている
 再び大きな揺れが来ると噂が広まり、動揺した市民の中には、うろたえる者、畳を道路に出して座り込み、おびえる姿もあった。
 地震発生から数時間後、高崎からはるか南の空に黒煙がたちこめるのが見えた。夜になると火柱が上がり、南の空は真っ赤に染まった。筑波山が噴火した、秩父連山が噴火したと流言する者もいた。東京との通信が断絶し、何が起こっているのか全くわからなかった。
 時がたつにつれ、東京の下町が火災で灰燼に帰し、死傷者は数えられず、公園に避難民があふれていると高崎にも情報が入った。
 市は市役所に近い職員を招集し、徹夜で盗難や火災の警戒にあたった。市民は神社や寺の境内に自主的な避難所を作った。

南関東の鉄道網が壊滅し東海道線に大被害
 地震により南関東の鉄道網は壊滅的な被害を受けていた。鉄橋は崩落、トンネルは土砂崩れで埋まり、震源地の神奈川県の被害は特に甚大で、東海道線の線路や駅舎が山崩れで海に落ち、津波で鉄路は分断された。
 一方、高崎線は復旧が最も早く、荒川の鉄橋は不通になっていたが、震災翌日の2日には高崎・川口間が運行された。大宮以南は救援車両のみ運行され、一般乗客は大宮から乗車したとされる。焼け出された避難者は、都内から大宮まで歩き、着のみ着のままの群集が列車に乗った。高崎以南の駅ではり災証明の紙片を発行し、避難者を無料で乗車させた。

上信越・関西への避難者が高崎に押し寄せる
 高崎駅は高崎線のターミナル駅で、東京を脱出した避難者は最終目的地にかかわらず、乗り換えのため全員が高崎駅で一旦、下車する。震災翌日の2日から高崎駅には、避難民を満載した列車が到着し、連日膨大な数の避難民が高崎駅に押し寄せてきた。列車内だけではなく、屋根、機関車、貨物車など人が乗れそうなところは避難民でいっぱいだった。食料も水も持たず、衣類はススと泥で汚れ、負傷者や病児を抱えた母親など、高崎駅に降りる人たちは悲惨を極めていた。
 9月3日、4日と、高崎への避難者は激増を続け、一日当たり1万2千人となり、震災から1週間たった9月8日でも一日5千人を超えていた。上信越方面に向かう人に加え、東海道線が不通で高崎線から信越線を経由して名古屋以西の関西方面、四国九州に向かう避難者も非常に多かった。

高崎の総力を上げた救護活動
 この時の高崎市の救護活動は目をみはるもので、市役所職員が米3俵の炊き出しを行って握り飯を配ったのをスタートに、東京の窮状を知った市民が続々とボランティアで救護活動に集まった。市が手配した食料、救援費用に加え、市民からも物資や義援金が寄せられた。在郷軍人会、宗教界、青年団、婦人会、中学生や女学生ら2千人体制で対応したと内閣府の記録にある。
 救護所では食料や衣類を配り、高崎市医師会は24人の医師と25人の看護婦を出して毎日数百人を治療し、中には重傷者も含まれていた。行くあてのない避難者も多く、安国寺、大信寺、延養寺、高盛座、救世軍の各施設、青年団が設営した休憩所に連日1,600人を無料で宿泊させた。東京へ派遣されなかった連隊兵士は、高崎駅で女性や子どもの乗降を手伝い、荷物の運搬にあたった。
 一方、高崎駅には避難者に加え、都内の親近者の安否を確認しようと入京証明を求める者が殺到し、これをさばくのも大変であった。高崎駅は混乱の極みだったようだが、市民の救護活動により、10日間で延べ8万2,400人を救援した。埼玉県全体の避難者数が30万人、千葉県が15万人と記録されているので、一つの都市で8万人を救護できたのは、まさに奇跡であった。この時の高崎市の人口は約4万人である。

東京へ救護団と物資を輸送
 また東京への直接的な支援では、政府の要請に基づき大量の白米やパン、うどんが高崎駅から貨車で送られた。高崎らしい支援物資として、梅干し40斗(1斗=約18リットル)も送られている。
 2日の午後、飛行機が高崎の連隊の上空を旋回して通信筒を落とし救援が要請され同日午後11時に大部隊が高崎駅から汽車で東京へ向かった。その日の深夜(3日午前3時過ぎ)、青年団や消防団らの救護団が出発し、川口駅から歩いて東京へ入り、被害の大きかった日比谷・本郷・芝浦・築地など主に下町方面で救護活動に当たり、多くの被災者を救助した。

首都を襲った震災の教訓
 高崎市は関東大震災の救援活動を通じて、首都圏における高崎の役割を明確に自覚した。高崎は首都東京を救援する拠点、東海道の交通網がマヒした時に関東と関西を結ぶ最も重要な輸送拠点であった。最後に、忘れてはならない記憶として、震災下で、朝鮮人に対する差別的な殺戮があり、高崎でもデマによる悲惨な殺害事件があったことを記しておきたい。

会報「実業之高崎」大正12年9月号

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