高崎アーカイブ Series2 No.26

初めて電灯がついた日

明治37年(1904)12月1日

文明のエネルギー「電気」
県内最大出力で工業化を後押し


高崎の街灯の始まりは
 明治5年(1872)に文明開化の象徴のように横浜の馬車道でガス灯が灯され、その2年後には東京銀座でもガス灯が使われるようになった。ロマンチックなガス灯を見てきたのか、すぐに取り入れるのは高崎の市民性で、さっそく高崎でもガス灯が使われるようになった。高崎でガス事業が行われるようになったのは大正2年(1913)で、県下で最も早いのだが、明治時代には、まだ高崎に都市ガスはない。高崎でいうガス灯は、灯りの形は横浜や銀座にそっくりなのだが、中身は石油ランプだった。
 誰が考えたのか小粋なアイデアで、紺のハッピと腹掛け、紺のももひき、紺の足袋と、紺で揃えたいでたちの点灯夫の若者が、脚立を肩に担いで火縄を持ち、小走りに点灯して回ったという。市民は点灯夫の姿を見ると日暮れを感じた。点灯夫は大正時代まで続いていたが、電力による街灯ができ、その姿を消した。

前橋は全国5番目・桐生は6番目
 エジソンが白熱電球を発明したのが明治12年(1879)。明治15年に銀座に電灯(アーク灯)が灯り、初めて見る文明の輝きに、見物人が連日おしよせた。明治18年に日本初の白熱電灯が東京で点灯され、翌19年に最初の電気事業者、東京電燈会社が開業した。
 群馬県内の一般家庭用の電気事業は、京都、箱根、日光、豊橋に次いで全国5番目と非常に早く、前橋で明治27年5月に前橋電燈会社の総社発電所(正式名は植野発電所)が天狗岩用水を使って開業した。同年に桐生でも、日本織物会社の余剰電力を使った電気事業が全国6番目に開業している。どちらも電灯用電力であった。明治20年代、水力発電が全国の主要都市に広がったが、高崎は遅れていた。

烏川から取水し室田に発電所
 高崎で水力発電事業が計画されたのは明治30年代で、烏川からパイプラインで取水して室田に発電所を設置する計画を、高崎や室田の有志による烏川水力電気株式会社が進めていた。
 明治26年に信越線横川軽井沢間が開通し、代替輸送の碓氷馬車鉄道が廃線になると、翌明治27年、その軌道を全部転用して高崎・渋川間21㎞の群馬鉄道馬車を初代高崎市長になる矢島八郎、高崎商工会議所副会頭となる須藤清七、会頭となる小林弥七を含む高崎の有力者らで開業した。この群馬鉄道馬車も水力発電を考えていた。
 明治33年(1900)、高崎市制が施行され矢島八郎は初代市長に就任し、高崎に電灯を灯そうと意欲を燃やした。
 電灯はランプや行燈のように火を使わないので火災が減少する、夜間でも市街が明るくなるので治安もよくなる、電気によって工場の機械化を進めることができるなど、高崎の都市づくりのために、電気は不可欠だ。
 矢島市長は、高崎市が30万円を起債して水力発電を行おうと市議会にはかったが、反対が多く実現できなかった。そこで水力発電の計画を進めていた烏川水力電気株式会社と群馬鉄道馬車を仲介し、市が株式の3分の1を引き受け、明治36年6月に新会社高崎水力電気株式会社が資本金10万円で設立された。社長は須藤清七が就任し、小林弥七会頭らも重役で、明治中期の高崎産業界の重鎮が顔をそろえた。なお高崎水力電気の事業内容については、本連載の平成24年4月号で取り上げている。

十年遅れたが県内最大パワー
 発電施設は明治36年(1903)10月に起工し、翌年の10月に完成。前橋、桐生に10年遅れ、明治37年12月1日、室田発電所の電気は高崎市内の約3,000灯の電灯を灯した。電気の供給は夕方から翌朝までの夜間の電灯用に限ったもので、電気料金も月極めの固定制だった。この時に建設された室田発電所は現在でも稼働し、現役の水力発電所としては県内42カ所の中で最も古い。前橋、桐生の発電力が50kwだったが、室田発電所は300kwの本格的な発電所の群馬第一号で、高崎の発展の原動力となった。
 初めて電灯が灯った日、高崎市民は驚嘆したことだろう。電気が使えたのは全国でも都市部だけで、新潟から高崎に出てきた女中さんが初めて電灯を見て、翌朝、掃除の時に灯りを消そうとして、フーフーと一生懸命に息を吹きかけたが消えなかったという話が残る。この頃の電灯は十分な明るさが得られず、針の穴に糸を通すのは難しく、従来のランプを併用する家庭も少なくなかった。
 翌明治38年に工場での電気利用が始まり、タバコ専売工場、小島鐵工所など7工場に電力が供給された。

連合共進会で路面電車 電気で前橋の意地を見せる
 群馬鉄道馬車は高崎水力電気と経営陣が同じことから合併し、明治43年9月に前橋で開催される一府一四県連合共進会に合わせて、高崎・渋川間、前橋・渋川間の馬車鉄道が電化された。関東では9番目の電車であった。路面電車の運行や電力供給エリアの拡大で、高崎水力電気の発電能力は増強され、十年の遅れを一気に取り戻した。
 前橋電燈は、農業用水で発電していたため制約があり、電力不足を補うために、明治40年に高崎水力電気に合併していた。前橋は高崎水力電気の供給区域となり、電力事業で逆転していた。これが原因なのか、共進会の会場に地元前橋の電気を供給しようと県庁役人の呼びかけにより、渋川、大胡、伊勢崎、太田、館林に供給していた上毛水電を引き継ぎ、利根発電が設立された。共進会場では、高崎水力電気ではなく、利根発電の電気を使うことに決めた。
 しかし前橋市内には、既に高崎水力電気の電柱が立ち、電線が走っていたので、国は電線を地中化するように命じた。難工事の末、ようやく共進会の開催日に間に合った。地中送電は、東京と大阪で高圧線の送電に使われていたが一般配電に使われたのは、全国初であった。共進会場には、無事に送電され、夜になると赤や青のイルミネーションが点滅し「不夜城」の美を誇ったという。共進会の後、話し合いで前橋市内は利根発電が受け持ち、そのかわりに渋川が高崎水力電気の管轄となった。

十年の遅れを挽回し工業化を後押し
 高崎に初めて電灯が灯った時、矢島八郎は「産業の電気需要は大きく増加するだろう」と確信した。
 矢島が示した高崎市是を受けて高崎の工業化に取り組んだ井上保三郎が、大正3年(1914)に高崎板紙を設立するなど、高崎の工業が勃興した。工業用電力は、当初の7工場から大正5年には188工場に激増した。保三郎は、板紙工場の電力のため、室田発電所の下流に里見発電所の建設を考え、高崎水力電気とはかって大正9年に発電開始した。この里見発電所も現役で現在も動いている。
 南は埼玉県上尾市まで供給が達し、十年遅れた高崎の電力事業は大躍進を遂げたが、皮肉なことに需要に見合う電力供給が困難となり、大正10年に利根発電などとともに、国内最大の資本と発電設備を持つ東京電燈に合併した。
 高崎の工業化と電力開発は一体的に進められた。電気と矢島八郎の関わりについては余り知られていないが、影の大功労者であり、慧眼の持ち主であった。


写真「高崎市史 通史編4」より

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