私のブックレビュー7

『怒り 上・下』

志尾睦子

吉田 修一著
中央公論新社

語られるべきことは一体何か


 犯行後、男は六時間も現場に留まり、そのほとんどを全裸で過ごしている。この日、東京の気温は日中三十七度を越え、夜になっても三十度を下回っていない。(中略)
 そして、この凶行の場となった廊下に血文字が残されていた。被害者の血を使い、男が指で書いたのは「怒」という一文字だった。

 事件の概要を知らせる書き出しで、すでにアドレナリンが脳内を駆け巡るのがわかりました。異様な殺人現場の状況、犯人の不可解な行動は、すべてが「なぜ」に包まれます。事件が起きたのは2011年8月、八王子の住宅街。すでに犯人の身元は割れていて、その男・山神一也は事件直後に逃走、まもなく一年が経とうとしています。

 なぜ、山神は陰惨な事件を起こしたのか。彼が残した文字の意味はなんなのか。彼はいったいどんな人物なのか。当然その命題を胸に、読み進めていくわけなのですが、とたんに道に迷い込んでしまいました。追いかけても追いかけても捕まえられないのです。その犯人像を。

 本作は3つの物語が平行して進んでいきます。

 房総半島で漁師をする槇洋平・愛子親子のはなし。東京で広告代理店に勤めるゲイの藤田優馬のはなし。母親と二人で沖縄の離島に引っ越してきたばかりの高校生・小宮山泉のはなし。それぞれが、ある男に出会うのですが、彼らにはどこか共通する影があります。槇親子の前に現れた田代は、過去を詐称しており誰かに追われている事が判明してくる。優馬は直人と発展場のサウナで出会いそのまま一緒に暮らしだしますが、直人の素性は一切わからないまま。泉は同級生に連れて行ってもらった無人島で放浪者・田中に出会い親しくなりますが、彼もまたどんな人物か知れません。

 前歴の知れない男たちを、殺人犯・山神であろうと推測し、事件の真相解明がなされることを期待しているのに、いつのまにかそれが脇に追いやられていることに気がつきます。違うものが浮かびあがっているのです。それは、人間の深層心理。信じるとはどういうことなのか、疑いはどこから生まれるのか。怒りは何を生むのか。愛とは、友情とは、信頼とは、絆とは、何か。

 登場人物たちの迷いはそのまま読者の迷いになり、まんまと迷宮に誘われてしまいました。人間という大きな謎に、私たちはどこまで挑めるものでしょうか。

 すっきりしないながらも、充足感を得た読了に、ミステリーの真髄を見た気がしました。

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。

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